「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 「壬申の乱」のあらまし

※1 壬申の乱のあらまし(平成29年11月18日、於 赤村村民センター講演)よりページ作成

※2 白村江の戦いと壬申の乱(令和元年7月28日、九州古代史の会夏期講演会)の内容に修正

四、白村江戦前夜から壬申の乱まで

 7年ズレ、1年ズレを『日本書紀』の斉明紀、天智紀、天武紀、持統紀に至るまで全部段落分け整理し、豊前国旧記に見られる
ような別の天智年号を仮定すればどのようになるのか?これを組み立てた。

■ 白村江戦前夜

 (1)  天智三年 ( 六六四 → 六五七

 『日本書紀』の天智三年に水城が造られたとある。この記事の出だしに、「是歳」とある。『日本書紀』で「是歳」と書かれて
いる時が注意です。ハッキリ言って年代不明です。ただ天智三年のところに書いてあるだけです。絶対に段落分けしましょう。
 書家のもたらす帝紀の話かもしれない。
 『日本書紀』の天智三年、六六四年から7年前に戻した六五七年で白村江戦の前に造られていたのではないか?

   大宰府の都 を守るために水城が造られた。

是歳、於對馬嶋壹岐嶋筑紫國等置。又於筑紫築大堤貯水、名曰水城

 水城

「写真」

  

「絵」

 (2)  天智天皇七年 ( 六六八 → 六六一

 豊国側の天智七年であれば、六六一年になる。ここも『日本書紀』では、「是歳」とある。この記事は、豊国の王剣、現在の天皇家
まで伝わる天皇位を象徴する「草薙剣」が新羅の僧に盗まれた。途中で嵐にあい、置いて帰ったというこの伝承が残っている。
 これは、天智天皇が大宰府にあった「草薙剣」を盗み出した話か?この天智七年は、天智天皇が称制を始めた年である。
 「草薙剣」が帰ってくるまでは、天皇を名乗れなかった?

春正月丙戌朔戊子(三日)に、皇太子即天皇位す。或本に云はく、六年の歳次丁卯の三月に位に
即きたまふ。

是歳、沙門道行、草薙剣を盗みて、新羅に逃げ向く。而して中路に雨風にあひて、
荒迷ひて帰る。

福岡県鞍手郡鞍手町中山の  八剱神社 に同じ伝承があり、草薙の劒はこの宮に保存されていたとの言い伝えがある。
  近くの  古物神社 にも   草薙の劒が降って来たとの伝承がある。したがって、新羅の僧(天智の間諜)が大宰府から盗み出し、
  豊国に取り返したか。
  このおかげで天智は名実ともに天皇位に即いたか。

 (3)  天智天皇六年 ( 六六七 → 六六一

春三月辛酉朔己卯(十九日)、都を近江大津宮(糸田町  大宮神社 に遷す。

『海東諸国紀』 
斉明七(六六一)年辛酉、白鳳と改元し、都を近江州に遷す。

 朝鮮の資料『海東諸国紀』に斉明七年(六六一)に都を近江州に遷すとある。「白鳳」に改元と書いてあり、天智天皇が始めて
この時に都を近江に遷した六六一年で、糸田町の漏刻(泌遷)から鐘の音が聞こえる範囲内に近江大津宮があるとの確信から糸田町の
大宮神社を探し出した。この山は、宮山という。
 この大宮神社の正面には、倭三山(香春岳)が見える。歴代の天皇の宮は、神武天皇が建てた橿原宮がある方向を向いている。
 また、この神社の鳥居の前の川(たぎり川)の所に浮殿という字名が残っている。ここに天智天皇の宮があり、川から上がってくる
浮殿という雨よけの屋根付きの殿舎が建っていたのではないかと思っている。

※「白鳳」

 (4)  天智天皇七年 ( 六六一 ・・・ 豊前国旧記

 秋八月、右大臣金連公によって須弥山・漏刻(糸田町  泌泉 が造営された。

 (5)  天智天皇二年 ( 六六三

 秋八月壬午朔戊申(二十七日)倭国本朝、白村江に敗戦。筑紫君薩野馬、唐の捕虜のまま敗戦を知る。

  

「絵」

 筑紫君薩野馬は、六六〇年からすでに捕虜となっている。

 大宰府から「御笠軍団」印と「遠賀軍団」印が出土している。

 「御笠軍団印」

「写真」

 「遠賀軍団印」

「写真」

 この白村江戦前後の朝鮮や中国関係の資料をみていくと、倭軍は1,000艘の船を仕立てて戦いに行ったと書いてある。
 現地、白村江の戦いでは、400艘は唐軍と戦って、焼かれて全滅した。ところが600艘の船は戦いに参加しないで無傷で帰っていった
という。
 400艘の御笠軍団が滅んだのであって、遠賀軍団は戦わずして無傷で引き上げた。つまりこの時の遠賀軍団は、すでに天智の采配下に
あったのではないだろうか?
 太宰府側の水軍が全滅。天智側の遠賀軍団は全部残った。軍隊の差が歴然となった。だから、天智の称制が成り立つ。

『三国史記』 
 龍朔三(六六三)年 此の時倭国の船兵来たりて、百済を助く。倭船千艘、停まりて白沙に在り。
…是に於いて任師・任願及び羅王金法敏、陸軍を帥(ひき)ゐて進む。
…倭人と白村江に逢ふ。四戦皆、克ち其の舟四百艘を焚く。煙炎天を灼き、海水丹と為る。
…王子扶余忠勝・忠志等、其の衆を帥ゐ、倭人と並び降る。

 (6)  天智天皇四年 ( 六六五 → 六六四

 これが、また「海外国記曰」で天智天皇三年となっている。『日本書紀』は、天智天皇四年となっています。この時に唐の側から
劉徳高、660年に降伏した百濟の禰軍、朝散大夫柱國郭務悰たちが対馬を出て筑紫に入った。これが9月20日です。
 白村江戦の翌年に唐軍の兵士たちと百濟の禰軍、朝散大夫柱國郭務悰たちが筑紫にやってきた。
 『日本書紀』の天智四年の記事は、また7年ズレの天智十年のところにあり、筑紫君薩野馬が郭務悰たちと一緒に帰ってきている。
 これら全部合計すると1,400人。総合2,000人が47隻の船に乗ってやってきた。羈縻政策(きびせいさく)で筑紫都督(ととく)府が置かれ、
太宰府(倭国本朝)は占領された。

秋九月庚午朔壬辰、唐国、朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高等を遣す。
等謂、右戎衞郎將上柱國百濟禰軍朝散大夫柱國郭務悰、凡二百五十四人。
七月廿八日至于對馬、九月廿日至于筑紫、廿二日進表函焉。

海外国記曰、天智天皇三年四月、大唐客来朝。大使朝散大夫上柱国郭務悰
卅人・百済佐平禰軍等百余人、到対馬

『大唐故右威衛將軍上柱國 * 祢公墓誌銘』 (* 禰軍 六七八年没
 (前略)去る顯慶五年(六六〇)官軍の本藩を平らぐる日、機を見て變を識り、劔を
 杖つき歸を知るは、由余の戎を出づるがごとく、 金磾の漢に入るがごとし。
  聖上嘉歎し、擢んづるに榮班を以てし、右武衛滻川府析衝都尉を授く。時に日本の餘噍
 扶桑に據りて 以て誅を逋れ、風谷の遺甿、盤桃を負ひて阻め固む。(後略)

 祢公墓誌銘(拓本)

「写真」

 祢公墓誌銘に百済が唐に敗れた年=顯慶五年(六六〇)とピッタリ刻まれてる。筑紫君薩野馬が
唐軍の捕虜になった年です。百済の佐平禰軍と筑紫君薩野馬は、唐の都長安で知り合いである。
 禰軍が、知り合いである薩野馬を連れて筑紫の帰ってきた。
 墓誌銘には、六七八年に禰軍が亡くなった時に「日本の餘噍」と刻まれている。678年にすでに
倭国ではなく、日本国という名称が使われている。「日本の餘噍」は、日本の残党という意味である。

 筑紫に来た朝散大夫上柱国郭務悰や百済佐平禰軍ら数十人が、冬十月に河辺(かわら)の菟道に来ている。

冬十月己亥朔己酉(十一日)、大きに菟道(香春町  阿曽隈社 に閲す。

 この時の「閲(けみ)す」の閲の字は、閲兵式の閲の字である。天智天皇が、大宰府を占領しにやってきた唐の兵士たちを閲兵している。
 常識的に敗戦国側が勝った側の兵士たちを閲兵できますか?ありえなことが『日本書紀』に書かれている。だから、天智天皇は、
唐・新羅と敵対していない。むしろ友好国である。滅んだのは、太宰府側だけである。
 そのもう一つの証拠が、赤村の  琴弾きの滝 の由来である。

琴弾瀧 の由来( 標石 )
  紀元千三佰三拾(六七〇)年の頃、天智天皇 御西下豊前の国に御立寄の節  ある日此の瀧に御遊覧あらせられ瀧の側に
 御休みの時、天皇の御心を慰め奉らんと天女が天下りて琴を弾いたので 天皇の叡感斜めならず「琴弾瀧」と御命名遊された  
  其後命婦石川色子 琴の名手季氏 と共に此の瀧の岩上に坐し 別れの秘曲を奏した所、余韻嫋嫋として瀧に感応し、
 其音澄んで琴の如くありしため、それ以来一段此の瀧の名を発揮したり

 菟道宮が香春町で、飛鳥岡本宮(父舒明天皇のいた宮)で天智天皇は生まれているとすれば、幼少の時から琴弾きの滝で遊んで
いた可能性がある。
 何故、奈良県や滋賀県にいたとすれば、天智天皇が中国地方辺りの名瀑を飛び越えて、赤村の琴弾きの滝に来るのですか?
 天智天皇は、元々田川の人で、幼少の頃から馴染んでいたから唐の兵士たちをここに案内し琴を弾いた。

 (7)  (天智) 三年 ( 六六四 → 六六五

春二月己卯朔丁亥、天皇命大皇弟(大海人皇子=筑紫君薩野馬)、宣増換冠位階名及氏上・民部・
家部等事。

 大皇弟は、六六四年に帰ってきた筑紫君薩野馬ではないか?

(天智)十年 春十年春正月己亥朔庚子、大錦上蘇我赤兄臣與大錦下巨勢人臣進於殿前、
奏賀正事。癸卯、大錦上中臣金連命宣神事。是日、以大友皇子拜太政大臣、以蘇我
赤兄臣爲左大臣、以中臣金連爲右大臣、以蘇我果安臣・巨勢人臣・紀大人臣爲御史大夫。
御史蓋今之大納言乎。甲辰、東宮太皇弟奉宣或本云大友皇子宣命施行冠位法度之事、
大赦天下。法度冠位之名、具載於新律令也。

(天智) *四年 冬十月庚辰、天皇、臥病以痛之甚矣。(天武紀上)  ※天智十年(天智紀)

 『日本書紀』天智十年の冠位改訂の記事の後に天智が、病気になったとあるが、天武紀上では、天智四年と書かれている。

 (8)  天智天皇九年 ( 六七〇

春二月に、戸籍を造る。

※ 庚午年籍。唐の冊封下に入る。

『三国史記 新羅本紀文武王十年十二月』 
新羅本紀文武王十六七〇年 倭国更ためて日本と号す。自ら言ふ。日出る所に近し。
以に名と為すと。

倭国東朝が、国号を「日本」と改めた。    ・・・  ※「  旧唐書の証明 」のページも参照下さい。

 (9)  天智天皇十年 ( 六七一

九月に、天皇寝疾不予したまふ。
冬十月の甲子の朔壬午(十九日)に、東宮、天皇に見えて、吉野
(山国町  若宮八幡 に之りて、
脩行仏道せ むと請したまふ。天皇許す。東宮即ち吉野に入りたまふ。大臣等侍へ送る。
菟道
(香春町  阿曽隈社 に 至りて還る。

※ (天智天皇) 四年冬十月の)壬午(十九日)に、吉野宮に入りたまふ。時に左大臣蘇賀赤兄臣・
右大臣中臣金連、及び大納言蘇賀果安臣等送りたてまつる。菟道より還る。或の曰はく、
虎に翼を着けて放てり」といふ。是の夕に、嶋宮
(大任町  島台 に御します。癸未(二十日)に、
吉野に至りて居します。 
(天武天皇 摂政前紀)

十二月の癸亥の朔乙丑(三日)に、天皇、近江宮に崩りましぬ。癸酉(十一日)に、新宮に殯す。