「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 大石神社 = 帝階八幡が潰されて山の上に移された/第一の別宮:大三輪神社

※ 第11回古代史講座 古代田川を解き明かす 宗像が末盧国なら邪馬台国は田川だ2
 (令和元年六月二日、於 田川青少年文化ホール)より

 右図:川崎町の大石神社に伝わる帝階八幡の写し
 左図:池尻中付近の地図
    帝階神社(八幡)は、池尻中の近くにあった

「地図(池尻中)」
「古文書」

 

川崎町大石神社の正体
神功天皇帝階八幡)
神功皇后
太后
「大石神社」
大石神社の真の主祭神は
  神功「大后」だった

 大石神社の「石」の字に「、」が付いている。帝階八幡の写しで「神功天皇」とあり、『日本書紀』では、神功皇后の事を「皇太后」と呼び名を変えている。「石」の字の「、」は、太后を意味するのではないだろうか。
 小笠原公が、江戸時代の初め、帝階八幡があまりにも広々と敷地を占めていたので、宮を山の上に上げてその跡を田畑にしたという記録が残っている。これも事実です。
 その当時の神職たちが考えて、「太后」を意味する「、」の一角を「石」に付けて、太后神社大石神社と名付けたのではないだろうかというのが、私の推測です。仮説です。
 小笠原公が、帝階八幡を潰したことは、わかっています。

※  倭国大乱と卑弥呼(平成三〇年七月八日(日)、於 福岡県立大学大講義室)より

大三輪神社(田川郡川崎町):大物主神

 大物主の神を祭る神社であるが、奈良県桜井市には大神神社があるが、田川の地にもある。田川郡川崎町池尻字後藤寺原に小さな社であるが、大三輪神社がある。祭神が、大物主神とある。

 この大三輪神社は、大石神社の第一の別宮と書かれている。

「大三輪神社(祭神および由緒)」
「写真」
「写真」
「写真」

※  第14回古代史講座古代田川を解き明かす
 記紀はなぜ鷹羽の神々を隠したか  ‐壬申之大乱との関わり‐
 (令和元年12月8日(日)、主催:田川広域観光協会古代史研究会 、於 福岡県立大学 大講義室)より

川崎町の大物主信仰

● 明治初年の記録に川崎町の大物主信仰が残っている

・・・

 川崎町池尻の大三輪神社の由緒には、
白雉元年(西暦650年)に池尻村に勧請された大和国の一の宮三輪明神、大神(おおみわ)神社とある。

川崎町の大物主信仰
大三輪神社
福岡県豊前国田川郡
川嵜村大字池尻字後藤寺原
祭神  大物主神
由緒  本社は大石神社第一之別宮。
氏子の記録
「明治初年に内務省に報告せる記録」
 孝徳天皇白雉元年(六五〇年)、大和
 国の一の宮三輪明神、大神(おおみわ)神社
より
 池尻村に勧請する。
「写真」

● 奈良県の大神神社は、川崎町の大三輪神社より200年近く新しい

・・・

 奈良県の大神神社が、大和国一之宮となったのは、貞観元年(西暦859年)に正一位となった更にその後である。
 それでも奈良県の大神神社は、日本で一番古い神社だと言っている。
 池尻村(川崎町池尻)の大三輪神社は、何処にあった大和国の大神(おおみわ)神社より勧請されたのか?その大和国は、香春しかない。香春岳の何処かに大物主が祀られていた。

奈良県の大神神社
 「大神」と書いて「おおみわ」と読むように、古くから神様の中の大神様として尊ばれ、第十代崇神天皇の時代には国造り神、国家の守護神として(あつ)く祀られました。
 平安時代に至っても大神(おおみわの)祭、鎮花(はなしずめの)祭、(さい)(くさの)祭が朝廷のお祭りとして絶えることなく斎行(さいこう)され、神階は貞観元年((859))に最高位の正一位となりました。
 延喜式の社格は官幣大社で、のちに大和国一之宮となり、二十二社の一社にも列なるなど最高の待遇に預かりました。
「写真」

<所在地のGoogelマップ>