「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 宗像が末廬国なら邪馬台国は田川だ2

※ 第11回古代史講座 古代田川を解き明かす
  宗像が末盧国なら邪馬台国は田川だ2 (令和元年六月二日、於 田川青少年文化ホール)より

本章 記紀から解く魏志倭人伝 ⑤仲哀記と神功皇后紀

■ 氣長足姫尊天皇の征西

氣長足姫尊天皇の征西
 四世紀後半、遂に東鯷国が挙兵した。
すでに饒速日尊の本流と融合したと推測
される東の三角縁神獣鏡圏を形成する強
国が、征西を開始した。
 気比の宮を発した神功天皇(神功皇后)
は、海人族を従え、但馬・播磨の国を南
下、瀬戸内海に出る。
 吉備の鬼の城の温羅(うら)を滅ぼし、西進
る。牛窓でも新羅の王子を退治し、遂に
穴門豊浦宮(下関市幡生の生野神社)を
落し入城。
 邪馬台国の王の一人、岡県主の祖熊鰐(くまわに)
が帰順。続いて伊都(いつ)主の祖五十迹手(いそとて)
帰順。
 淡海の大津の宮(豊津町)を滅ぼし、
御所ヶ谷(神籠石、旧京都郡、現行橋市)
に拠る忍熊王を殲滅。

 (*1)伊都(いつ)県は、『魏志倭人伝』に出てくる「伊都国」で間違いない。「いと国」ではなく、「いつ国」と読む。

 (*2)東鯷国」というのは、『  後漢書東夷伝倭国 』の中に「東鯷人」という記述がちゃんと出てくる。

 (*3)神功天皇(神功皇后)は、  若狭(氣比神宮) ・近畿の方から出てきた。氣比神宮は、都怒我阿羅斯等に関係する。

 神功皇后の戦略と魏使の経路 
 魏使が、末廬国(宗像・福津)に上陸して邪馬台国(田川)に至る経路(国々)と神功皇后(天皇)が、豊国を制圧して
いった場所とが重なっている。

岡県主に関係する  古遠賀湾 
 『日本書紀 神武天皇紀』の中に、伊弉諾尊が自分の治めた国について言った土地は、古遠賀湾であり、銅矛文化圏の
土地である。

氣長足姫尊天皇の征西
 遠賀の地で物部氏を招集し、ニギタ津(鞍手
町新北)
を出航
筑紫末羅県(宗像大社・宮地岳神
社周辺)
の勝門比売を滅ぼす
 美奈宜神社や平塚川添遺跡などに拠った羽白
熊鷲を殲滅

 筑後川を渡って三潴を攻撃、桜桃(ゆすら)沈輪(ちんりん)を滅ぼ
す。
 女山(ぞやま)神籠石に拠る田油津(たぶらつ)姫を討伐。豊・筑・
火の三国(三韓)を征伐する。
 邪馬台国滅亡
 4世紀半ば、川崎町「帝階八幡神社(現在の
大海)」にて即位。
「古遠賀湾地図(新北津)」

 (*4)神功皇后が熊襲と云われる豊国の王族を次々と滅ぼして、女王 卑弥呼が治めた邪馬台(ヤマト)国は、
     神功皇后によって、一旦滅びるという仮説を出した。

 『魏志倭人伝』より30年前に書かれた『魏略』という書物に書かれた「帯方郡から倭・女王國」への記述。

帯方郡から倭・女王國に
分軄命官統女王而列部
 魏略曰、從帶方、循海岸水行、
暦韓國、到拘耶韓國、七十餘里、始度
一海、千餘里至對馬國。 其大官曰卑
拘、副曰卑奴。無良田、南北市糴。
南渡海、至一支國、置官至對同。方可
三百里。又渡海、千餘里至末盧國
善捕魚
能浮沒水取之。東南五百里、
伊都國、戸万餘、置曰爾支、副曰洩
溪觚柄渠觚。其國王皆統屬王女也。
文身點面猶稱太伯之苗
 魏略曰…自帶方至女國万二千餘里

 (*5)『魏略』には「一大国」なんかとは書かれていない。ちゃんと「一支国」と書かれている。  原の辻遺跡 
     ある。この壱岐も神功皇后に滅ぼされたらしい。百合若大臣は、豊国(豊後国)から来たという伝承が
     残っている。原の辻遺跡は、1700年前に滅んでいる。

魏志倭人伝
 女王国より以北には、特に一大率
を置き諸国を検察せしむ。諸国、之
を畏れ憚る。
 常に伊都国に治し、国中に於いて
刺史の如き有り。
 王使を遣はして京都・帯方郡・諸
韓国に詣らしめ、及び郡の倭国に使
するや、
に臨
みて捜露
し、文書・
賜遺の物
を伝送し
て女王に
詣らしめ、
差錯する
を得ず。
(中略)
写真「新北」

新北津跡

 (*6)『魏志倭人伝』によれば、「一大率」が伊都国に居た。2回目以降の魏の遣いは、伊都国の津に臨んで
     倭国側の遣いが女王と帯方郡の遣いとの間を行き来したとある。

 『魏志倭人伝』の末廬国を通説の学者は、『日本書紀』に書かれている肥前国の松浦県を末廬国としている。現在の
唐津市呼子町であるが、『古事記』には、筑紫の末羅(まつら)の縣と書かれている。
 松浦県という同じ土地が、『日本書紀』では、火前(肥前)国とあり、『古事記』では、筑紫とあり、大きく異なっている。
『日本書紀』に書かれた橿日宮の「北の方」に当たる  筑紫の末羅の縣 が『魏志倭人伝』に書かれた末廬国である。

 神功皇后の滅ぼされた筑紫の末羅の縣の勝門比売は、本当に宗像・福津にいた。宮地嶽神社の祭神は、勝門姫だったことが、
糸島市の  伊都国宮地嶽神社 より判明した。

 福津市の宮地嶽神社の北に勝浦という地名があるようにこの辺りは勝一族の土地である。神功皇后に滅ぼされた勝門姫の
勢力範囲が、  宗像・福津 であり、『魏志倭人伝』の末盧国が、勝門姫の領地(筑紫の末羅の縣である。

 その福津市の  宮地嶽神社 祭神が、勝門姫から神功皇后(息長足毘売命)に置き換えられてしまった。

 御所ヶ谷(山城京)に拠る  忍熊王(熊坂王)を殲滅 した。戦いに敗れた忍熊王が入水自殺した瀬田濟の記述が『日本書紀』に
残されている。飯塚市の勢田(せいた)だとと思われる。

 現地伝承と『日本書紀』からの年表

「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
神功皇后
① 357年12月、粕屋町宇美八幡で誉田
 別皇子を出産。
 ショウケ越えをし、飯塚市大分八幡で新羅
 遠征の物部軍を解散。
② 橿日宮(飯塚市負立八幡)に帰還、誉田
 別皇子7歳まで成長。
(川崎町史)
③ 364年、位登宮(川崎町帝階八幡)に
 遷宮。半年後、誉田別皇子皇太子になる。
 神功、天皇位に登る。
(現地伝承+日本書紀)
④ 香坂王・忍熊王の反乱。
⑤ 365年春2月、穴門の豊浦宮に入り、
  二王の討伐に向かう。
  3月、忍熊王の軍を殲滅。
⑥ 381年、誉田別皇太子が天皇に即位し
  、神功は皇太后となる。
⑦ 383年、誉田別天皇(応神)磐余若桜
  宮(田川市川宮)に遷宮。

 (*7)からは、現地伝承である。ショウケ越えの時に誉田別皇子は、乳飲み子ではなく、7歳まで成長していて、
    兵士たちが加護に乗せて、ショウケ越えをしたと『川崎町史』に書いてある。
    現在の川崎町  大石神社 の前身である帝階八幡が、江戸時代まであったところが、昔の位登宮であるという。
    7歳半で誉田別皇子が、皇太子になり、今は皇后といわれる神功が、天皇位に登ったようである。

日本書紀の神功と応神
 冬十月癸亥朔甲子、群臣尊皇后曰
皇太后
是年也、太歲辛巳(321年)、則
攝政元年
 二年冬十一月丁亥朔甲午、葬天皇
於河內國長野陵。
 三年春正月丙戌 朔戊子、立譽田別
皇子

皇太子
因以都
於磐余。
是謂
若櫻宮
写真「若咲神社」

若咲神社(田川市川宮)

 (*8)『日本書紀』に出てくる若桜宮は、田川市川宮にある  若咲神社 であろう。若咲神社の縁起によると、田川市川宮と
    福井県若狭が繋がっている。
    神功皇后は、若桜宮で崩御しているので、若狭(気比の宮)には帰っていないことになる。
    したがって、  若咲神社の近くに陵 があるであろうと探した。

 『日本書記』と現地伝承から「宗像が末廬国なら邪馬台国は田川だ」というのは、滅ぼされた勝門比賣の伝承から考えても
卑弥呼の時代は、神功皇后よりも120年前だからその頃に書かれた『魏志倭人伝』の末廬国は、どう考えても宗像・福津でしょ。
 肥前の松浦に行っている訳が無いです。