「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 枝光八幡宮周辺 = 周芳の沙麼の浦

 357年1月、筑紫の伊覩(いつの)県主(あがたぬし)の祖五十迹手(いそとて)が、五百枝(いほえ)賢木(さかき)を抜き取って船の舳艫(ともへ)に立てて、上枝(かみつえ)
には八尺瓊(やさかに)を掛け、中枝(なかつえ)には白銅鏡(ますみのかがみ)を掛け、下枝(しもつえ)には十握劒(とつかのつるぎ)を掛けて、穴門の引島(彦島)に天皇
を迎えて献上した。「臣がこれらを献上する訳は、天皇に天下を平定していただきたいからです」と
申し上げた。

 いわば、三種の神器を神功に献上し、帰順したことになる。賢木は(さかき)であり、玉串奉奠(たまぐしほうてん)の起源で
あろう。 伊覩県は魏志倭人伝にいう「伊都(いつ)国」であり、古遠賀湾沿岸の国である。筑豊の県主が、
早くも東鯷国の女王に帰順した。

 続いて、岡県主(おかのあがたぬし)の祖熊鰐(くまわに)が、「周芳(すわ)沙麼(さば)の浦」に神功を迎え帰順、魚塩(なしお)の地(御料の魚や塩を
とる区域)を献上した。

 熊鰐一族は、神代の昔から遠賀の東西(北九州市から岡垣町)の海と海岸部を領有していた一族で
あろう。熊鰐の御子孫が今も岡垣町にいらっしゃる。
 周芳の沙麼の浦は、今日まで山口県防府市佐波に当てられてきたが、北九州市八幡東区「諏訪」に
鎮座する枝光八幡宮周辺と考えられる。

 新説 日本(やまとの)書紀(ふみ)   第18回(平成30年9月15日)神功皇后② 『豊浦宮で仲哀死し測位す』もご参照
 下さい。

※ 新説 日本書紀(第19回 神功皇后②) ・・・ YouTube動画は、  こちら です。
 (令和4年7月1日、担当:全国邪馬台国連絡協議会九州支部、会場:嘉麻市射手引神社上山田公会堂)より

枝光八幡宮(北九州市八幡東区諏訪)

写真「枝光八幡宮」
祭神
 八幡神(神功皇后・応神天皇)
 比売大神、須佐之男命
 建御名方神      を祀る。

歴史
 建久年間に、筑前の宇都宮氏(麻生氏)の
祖・宇都宮重業が、生国の下野宇都宮から氏
神の八幡神を勧請し、居城である花尾城の鬼
門にあたる宮田山に祀ったのに始まる。
 以来麻生荘の鎮守神として麻生氏より篤い
崇敬を受けたが、麻生氏の衰亡とともに衰微
した。
 慶長年間に入ると社領を没収される憂き目
にあったが、寛永4年に現在の諏訪山の地に
遷座しその祭祀を続けた。
 明治に至り村社に定められ、大正7年には
諏訪山の地にあった諏訪神社を合祀。同15
年には県社に列した。
枝光八幡宮(1/2)

 

『八幡』の由来
 
 「枝光」の地名の由来は仲哀天皇が熊襲征
伐の折、地元の豪族・熊鰐が真榊の枝に剣・
玉・鏡の3種の宝物を下げて迎えたことから
「枝三つ」=「枝光」と称するようになったという。


 また明治22年に枝光村・尾倉村・大蔵村
の3村が合併することになった際、3村の鎮
守神がそれぞれ枝光八幡宮(枝光村)・豊山
八幡神社(尾倉村)・乳山八幡神社(大蔵
村)であったため、八幡村と名づけられた。
 後に八幡村は八幡町、八幡市、八幡区と変
遷し、現在でも八幡東区としてその名前は残
っている。
枝光八幡宮(2/2)

 

  <所在地のGoogelマップ> ・・・ 北九州市八幡東区「諏訪」に鎮座する枝光八幡宮周辺が、「周芳の沙麼の浦
                  と考えられる