爰に新羅を伐ちたまふ明年の春二月に、皇后、群卿及び百
寮を領ゐて、穴門豊浦宮に移りたまふ。即ち天皇の喪を収
めて、海路よりして京に向す。時に麛坂王・忍熊王、天皇
崩りましぬ、亦皇后西を征ちたまひ、幷せて皇子新に生ま
れせりと聞きて、密に謀りて曰はく、「今皇后、子有しま
す。群臣皆從へり。必ず共に議りて幼き主を立てむ。吾等
何ぞ兄を以て弟に從はむ」といふ。乃ち詳りて天皇の為に
陵を作るまねして、播磨に詣りて山陵を赤石に興つ。仍り
て船を編みて淡路嶋に絚して、其の嶋の石を運びて造る。
即ち人毎に兵を取らしめて、皇后を待つ。是に、犬上君の
祖倉見別と吉師の祖五十狹茅宿禰と、共に麛坂王に隸きぬ。
因りて、將軍として東國の兵を興さしむ。時に麛坂王・
忍熊王、共に菟餓野に出でて、祈狩して曰はく、「若し事
を成すこと有らば、必ず良き獸を獲む」といふ。二の王各
假庪に居します。赤き猪忽に出でて假庪に登りて、麛坂王
を咋ひて殺しつ。軍士悉に慄づ。忍熊王、倉見別に謂りて
曰はく、「是の事大きなる怪なり。此にしては敵を待つべ
からず」といふ。則ち軍を引きて更に返りて、住吉に屯む。
時に皇后、忍熊王師を起して待てりと聞しめして、武內宿
禰に命せて、皇子を懷きて、横に南海より出でて、紀伊水
門に泊らしむ。皇后の船、直に難波を指す。時に、皇后の
船海中に廻りて、進むこと能はず。更に務古水門に還りま
して卜ふ。是に、天照大神、誨へまつりて曰はく、「我が
荒魂をば、皇后に近くべからず。当に御心を廣田國に居ら
しむべし」とのたまふ。即ち山背根子が女葉山媛を以て祭
はじむ。亦稚日女尊、誨へまつりて曰はく、「吾は活田長
峽國に居らむとす」とのたまふ。因りて海上五十狹茅を以