「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 倭国(豊国)北伐考

・倭国北伐考(スメラミコトの豊国征服譚)(平成28年3月21日、久留米大学)講演
・倭国(豊国)北伐考(平成28年7月31日、於 ももち文化センター)講演

[『日本書紀 神功紀 摂政元年』に記された忍熊王を殲滅する時に関する地名]

■ 日本書紀 神功紀 摂政元年

爰に新羅を伐ちたまふ明年の春二月に、皇后、群卿及び百
寮を領ゐて、穴門豊浦宮に移りたまふ。即ち天皇の喪を収
めて、海路よりして京に向す。時に麛坂王・忍熊王、天皇
崩りましぬ、亦皇后西を征ちたまひ、幷せて皇子新に生ま
れせりと聞きて、密に謀りて曰はく、「今皇后、子有しま
す。群臣皆從へり。必ず共に議りて幼き主を立てむ。吾等
何ぞ兄を以て弟に從はむ」といふ。乃ち詳りて天皇の為に
陵を作るまねして、播磨に詣りて山陵を赤石に興つ。仍り
て船を編みて淡路嶋に絚して、其の嶋の石を運びて造る。
即ち人毎に兵を取らしめて、皇后を待つ。是に、犬上君の
祖倉見別と吉師の祖五十狹茅宿禰と、共に麛坂王に隸きぬ。
因りて、將軍として東國の兵を興さしむ。時に麛坂王・
忍熊王、共に菟餓野に出でて、祈狩して曰はく、「若し事
を成すこと有らば、必ず良き獸を獲む」といふ。二の王各
假庪に居します。赤き猪忽に出でて假庪に登りて、麛坂王
を咋ひて殺しつ。軍士悉に慄づ。忍熊王、倉見別に謂りて
曰はく、「是の事大きなる怪なり。此にしては敵を待つべ
からず」といふ。則ち軍を引きて更に返りて、住吉に屯む。
時に皇后、忍熊王師を起して待てりと聞しめして、武內宿
禰に命せて、皇子を懷きて、横に南海より出でて、紀伊水
に泊らしむ。皇后の船、直に難波を指す。時に、皇后の
船海中に廻りて、進むこと能はず。更に務古水門に還りま
して卜ふ。是に、天照大神、誨へまつりて曰はく、「我が
荒魂をば、皇后に近くべからず。当に御心を廣田國に居ら
しむべし」とのたまふ。即ち山背根子が女葉山媛を以て祭
はじむ。亦稚日女尊、誨へまつりて曰はく、「吾は活田
峽國
に居らむとす」とのたまふ。因りて海上五十狹茅を以
て祭はしむ。亦事代主尊、誨へまつりて曰はく、「吾をば
御心の長田國に祠れ」とのたまふ。則ち葉山媛の弟長媛を
以て祭はしむ。亦表筒男・中筒男・底筒男、三の神、誨へ
まつりて曰はく、「吾が和魂をば大津の渟中倉の長峽に居
さしむべし。便ち因りて往來ふ船を看さむ」とのたまふ。
是に、神の教の隨に鎭め坐ゑまつる。則ち平に海を度るこ
とを得たまふ。忍熊王、復軍を引きて退きて、菟道に到り
て軍す。皇后、南紀伊國に詣りまして、太子に日高に会ひ
ぬ。群臣と議及りて、遂に忍熊王を攻めむとして、更に
竹宮
に遷ります。 (中略)
三月の丙申の朔庚子に、武內宿禰・和珥臣の祖武振熊に命
して、数万の衆を率ゐて、忍熊王を擊たしむ。爰に武內宿
禰等、精兵を選びて山背より出づ。菟道に至りて河の北に
屯む。忍熊王、營をでて戦はむとす。時に熊之凝といふ者
有り。忍熊王の軍の先鋒と為る。 (中略)
時に武內宿禰、三軍に令して悉に椎結げしむ。因りて号令
して曰はく、「各儲弦を以て髮中に藏め、且木刀を佩け」
といふ。既にして乃ち皇后の命を挙げて、忍熊王を誘りて
曰はく、「吾は天下を貧らず。唯幼き王を懷きて、君主に
從ふらくのみ。豈距き戰ふこと有らむや。願はくは共に弦
を絶ちて兵を捨てて、与に連和しからむ。然して則ち、君
主は天業を登して、席に安く枕を高くして、專萬機を制ま
さむ」といふ。則ち顯に軍の中に令して、悉に弦を斷り刀
を解きて、河水に投る。忍熊王、其の誘の言を信けたまは
りて、悉に軍衆に令して、兵を解きて河水に投れて、弦を
斷らしむ。爰に武內宿禰、三軍に令して、儲弦を出して、
更に張りて、眞刀を佩く。河を度りて進む。忍熊王、欺か
れたることを知りて、倉見別・五十狹茅宿禰に謂りて曰は
く「吾既に欺かれぬ。今儲の兵無し、豈戰ふこと得べけむ
や」といひて兵を曳きて稍退く。武內宿禰、精兵を出して
追ふ。適逢坂に遇ひて破りつ。故、其の處を號けて逢坂
曰ふ。軍衆走ぐ。狹々浪の栗林に及きて多に斬りつ。是に
、血流れて栗林に溢く。故、是の事を惡みて、今に至るま
でに、其の栗林の菓を御所に進らず。忍熊王、逃げて入
るる所無し。則ち五十狹茅宿禰を喚びて、歌して曰はく、

  いざ吾君 五十狹茅宿禰 たまきはる 内の朝臣が
  頭槌の 痛手負はずは 鳰鳥の 潜せな

則ち共に瀬田の濟に沈りて死りぬ。時に武內宿禰、歌し
て曰はく、

  淡海の海 瀬田の済に 潜く鳥 目にし見えねば
  憤しも

是の其の屍を探けども得ず。然して後に、日数て菟道河
に出づ。武內宿禰、亦歌して曰はく、

  淡海の海 瀬田の済に 潜く鳥 田上過ぎて
  菟道に捕へつ