「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 「壬申の乱」のあらまし

※ 壬申の乱のあらまし(平成29年11月18日、於 赤村村民センター)講演より

二、斉明天皇と天智称制の謎


 ①糸田町の泌泉

 糸田町役場の南方に「  泌泉 」という遺跡が残されている。地元では「たぎり」と呼ぶ。
 糸田町教育委員会の建てた説明板にこうある。

 福岡県神社誌に、
 「糸田金村権現宮は、天智天皇7(668)年秋8月、右大臣金連公によって造営された
  ものである。公が天皇に随い、筑紫要害の地を巡視の折、糸田の郷に至り権現の示現を
  蒙った。鉾をもって探地したところ神泉を得、灌漑に大いに役立った。」

 と記されている。(後略、原文は横書き) 

 右大臣金連について、『日本書紀』天智天皇紀にこうある。

 十年春正月己亥朔庚子、大錦上蘇我赤兄臣與大錦下巨勢人臣進於殿
前、奏賀正事。癸卯、大錦上中臣金連命宣神事。是日、以大友皇子拜
太政大臣、以蘇我赤兄臣爲左大臣、以中臣金連爲右大臣、以蘇我果安臣・巨勢人臣・紀大人臣爲御史大夫。
御史蓋今之大納言乎。甲辰、東宮太皇弟奉宣或本云大友皇子宣命施行冠位法度之事、大赦天下。法度冠位
之名、具載於新律令也。
 夏四月丁卯朔辛卯、置漏剋於新臺。始打候時動鍾鼓、始用漏剋。此漏剋者、天皇爲皇太子時、始親所製造
也、云々。

 泌泉(たぎり)

「Google Earth(糸田町沁泉)」

 何と、「泌泉」は天智天皇の建てた「漏刻」跡ではないか。
 福岡県神社誌を再確認した。 「神体台板」は明治初期に
 失われ、糸田町に拓本が、福岡県神社誌にその刻文が
 残されていた。口語訳を試みた。

 【口語訳】
 旧記(不詳)に云うことには、糸田庄の金村権現宮は
 天智天皇七年秋八月に右大臣金連公が造営させられた
 ものである。初め、金連公は天皇につき従い、筑紫の
 要害を巡視された時この地に到り、権現が夢に現れ
 告知をこうむり、鉾を用いて地を探り神泉を得、灌漑に
 便利であった。よってその後友足(有職か)に仕え権現
 を池のほとりに勧請し、村人に永く権現の恩恵を享け
 させた。社伝に云うには、金村権現は大和国葛城下郡
 の式社で、大臣の氏神である。
 今年七月、激震がしきりに起こり、社殿に到り、神体を損傷し、水口を塞ぎ、神泉を埋めた。こういうわけで、いずれの田も亀裂が入り、
 稲が悉く枯れ、人民は恐れおののいた。そこでまず大神楽を奏し、その上幼児に家々のために神慮を伺わせた所、神が幼児に憑いて
 告げて言うには、「ここより北方二町に霊石の目印有り、その傍らに鉾有り、拾い来たりて神体と崇むべし。」と。そこで鉾を探させると
 果たして神のお告げどおりであった。それで神の教えに従って鉾を奉斎した。以来、神慮もたちまちに和み神泉も復旧した。すべての人が
 感動し、喜びのあまり特に高瀬に命じてこの始末を台板に彫り付けさせた。この思いを終えるのに他は無い。永く石を用いて神体をお迎え
 した理由を知らせようとしただけだ。

 泌泉の歴史(金村神社)

「由緒(画像)」

  承安四甲午(一一七四年)七月二十五日
   大願主大檀越
    大神朝臣緒方右京進惟世敬白

 天智天皇十年(六七一)に造られた漏刻が「豊前の旧記」には天智七年(六六八)に
 造られたと記してある。また、一一七四年の激震で「神体が壊れ、水口を塞ぎ、神泉
 を埋めた」とある。大きな建造物が壊れたようである。
 漏刻造営の記事がもう一か所ある。

 (斉明六年、六六〇)

 夏五月辛丑朔戊申、高麗使人乙相賀取文等、到難波館。是月、有司、
奉勅造一百高座・一百衲袈裟、設仁王般若之會。又、皇太子初造漏剋
使民知時。又、阿倍引田臣闕名獻夷五十餘。又、於石上池邊作須彌山
高如廟塔、以饗肅愼卅七人。又、舉國百姓、無故持兵往還於道。國老
言、百濟國失所之相乎。

 斉明六年にも「初めて漏刻を造り」、併せて「須弥山を作る、高さ廟塔の如し」とある。
 一一七四年に壊れたのは「廟塔のごとき高さの須弥山」であったらしい。
 写真は、泌泉の丸い池に新羅の善徳女王の建てた「慶州の瞻星台(一説に須弥山とも)」
 を配した想像図である。
 漏刻は隣の長方形の池に造られたらしい。丸い池の底から水が不断に湧いているので、
 仕切りから溢れた水を受けるだけで漏刻は作動する。
 奈良県の「水落遺跡」が「漏刻跡」とされているが、廟塔のごとき須弥山も無ければ、
 自動的に水の供給を受ける設備も無い。糸田町の泌泉の方が「本物の漏刻跡」であろう。

  泌泉+須弥山

「合成写真」

  泌泉+漏刻

「合成図」