「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 「壬申の乱」のあらまし

※ 壬申の乱のあらまし(平成29年11月18日、於 赤村村民センター)講演より

一 舒明・皇極(蘇我氏の滅亡)

 蘇我氏が、物部氏を滅ぼした後、遠賀川流域(古遠賀湾)の
物部氏が、筑紫側に就く。  福岡県内に東西に2つの王朝が
並立したらしい。
 筑紫側が倭国本朝。豊前側が倭国東朝。この国境が、現在の
筑前と豊前の始まり。

『古今和歌集』

世の中は 何か常なる 飛鳥川 昨日の淵ぞ
今日は瀬になる

 この歌に歌われたように一晩で、深い淵が浅瀬になった
河川争奪が起こった場所が、赤村の  油須原(灰坂) の所で
あり、現在の今川(昔の犀川)が、90度折れ曲がって、
行橋市へ流れていっている。
 それが歌に残された飛鳥川であるのであれば、飛ぶ鳥のアスカは、赤村になる。その飛鳥川(今川)が、行橋に流れて行っているので、
行橋も飛鳥(アスカ)である。赤村から行橋までの飛鳥川の流域が、飛鳥(アスカ)の土地である。
 行橋の方が、天皇家・蘇我氏が栄えて京が置かれたので、近つ飛鳥。赤村が、遠つ飛鳥となった。

倭国東朝(豊前側)の天皇

 息長足日廣額天皇   (舒明天皇 在位六二九~六四一)紀

 天豐財重日足姬天皇  (皇極天皇 在位六四二~六四五)紀

 倭国地図 (法興元591以後)  天物部氏が筑紫に就く

「福岡県Flood Maps」

二 斉明天皇と天智称制の謎

  糸田町役場の南方に「泌泉」という遺跡が残されている。地元では「たぎり」と呼ぶ。この泌泉が「本物の漏刻跡」であろう。

  斉明六年・天智七年・天智十年のいずれが漏刻建造の正しい年であろうか。糸田町に遺された「台板刻文」が最も正しいようで、
 漏刻建造の年は天智七年、ただし、西暦六六一年らしい。

三 豊君としての天智天皇

 ・・・ 「天智の称制」とは

 ・・・ 斉明紀の最大の不可思議な点は

 ・・・ 「漏刻の建造」の他の大業績も天智天皇だった

四 白村江戦前夜から壬申の乱まで

 ・・・ 斉明紀・天智紀・天武紀の概要と絶対年を再考する

 ・・・ 「扶桑略記第五 天智天皇九年」、「万葉集一四八、一五三」が謎を解く