「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 「壬申の乱」のあらまし

※ 壬申の乱のあらまし(平成29年11月18日、於 赤村村民センター)講演より

二、斉明天皇と天智称制の謎

 ②漏刻の築造年

 では、斉明六年・天智七年・天智十年のいずれが漏刻建造の
 正しい年であろうか。
 実は、斉明紀・天智紀・天武紀には「記事の重出」が多い。
 漏刻建造に関しては、次の記事がヒントになりそうだ。

(a)(斉明六年、六六〇)「方今謹願、迎百濟國遣侍天朝
 王子豐璋、將爲國主。」云々。送王子豐璋及妻子
 與其叔父忠勝等、其正發遣之時見于七年
(六六一年)

(b)(斉明元年)夏皇祖母尊即天皇位。
  (斉明)七年七月丁巳崩、皇太子素服稱制。

(c)(天智)三年春二月己卯朔丁亥、天皇命大皇弟、
 宣増換冠位階名及氏上・民部・家部等事。

  (この条は全体として、または部分的に天智天皇十年条
   重出しているらしい。〈日本古典文学大系頭注〉)

(a)は、斉明六年(六六〇)に百済の王子豊璋等を本国に帰還させた記事である。だが、直後に「正しい発遣の時は七年に見える」
  ある。一年のズレがある。斉明紀・天智紀・天武紀にはこの一年のズレが多い。斉明六年の漏刻建造記事も斉明七年のようである。

(b)は、天智称制の記事であり、日本書紀中最も不可解な記事の一である。称制とは、「太后などが天子に代って政令を行うこと。
  制は天子の命。」と大漢和辞典にある。用例として、史記の呂后本紀の
  「今太后称制、王昆弟諸呂、無不可。」
  が挙げられている。称制は摂政ではない。摂政なら斉明即位時に就くはず。斉明の死後、天皇不在のまま称制することは我が国の
  歴史上あり得ない。もし、斉明即位時に天智が称制したなら、斉明七年間は事実上無意味になる。むしろ、斉明元年に天智も即位
  したと考える方が分かりやすい。

(c)は、七年ズレの重出記事の最も著名な例である。日本古典文学大系の『日本書紀』にも詳細な注が施してあり、明らかに同一の   
  記事が天智三年と天智十年に重出しているとある。そもそも、天智十年とは天智が病死する年である。病死の前に、大海人皇子に
  命じて官位を改定させてもほとんど意味がない。

(a)(b)(c)の年代のズレを整理すると上記の表のようになる。つまり、斉明と天智は異なる王朝のそれぞれの天皇であり、同年に
 即位したのではないかということである。斉明が倭国本朝(筑紫国)の天皇で、天智が倭国東朝(豊国)の天皇ではないかということ
 でもある。日本書紀は並立する二人の天皇の年代を無理に縦に一本に繫いだようだ。いわゆる「万世一系」の編年を企てたのではないか。

 そうすると、糸田町に遺された「台板刻文」が最も正しいようで、漏刻建造の年は天智七年、ただし、西暦六六一年らしい。なお、
 台板は石板だったようだが、行方不明であることが惜しまれる。筑豊の文化遺産は時折消されることがあるようだ。

「年表」