「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 壬申の乱のあらまし(平成29年11月18日、於 赤村村民センター)講演より
一 舒明・皇極(蘇我氏の滅亡)
■ 息長足日廣額天皇(舒明天皇 在位六二九~六四一)紀
即位前紀から始まる。
息長足日廣額天皇、渟中倉太珠敷天皇孫、彥人大兄皇子之子也。母曰糠手姬皇女。豐御食炊屋姬天皇
廿九年、皇太子豐聰耳尊薨而未立皇太子、以卅六年三月天皇崩。
九月、葬禮畢之、嗣位未定。當是時、蘇我蝦夷臣、爲大臣、獨欲定嗣位。
蘇我蝦夷が大臣となり、嗣位(ひつぎのくらい)を定めようと欲す。以下、年表でまとめる。
聖聴元年(六二九)一月四日、即位。
二年(六三〇)十月十二日、遠つ飛鳥岡本宮(赤村岡本 光明八幡社 )に遷る。
三年(六三一)三月一日、 百済の義慈王が王子の豊章を質として送る。(倭国本朝)
四年(六三二)十月四日、唐の高表仁が難波津に到着。(倭国東朝)
五年(六三三)一月二十六日、高表仁が唐に戻る。
「與王子爭禮、不宣朝命而還」(『旧唐書』)は倭国本朝の事件。
八年(六三六)六月、岡本宮が火災に遭う。田中宮(田川市伊加利 岩亀八幡神社 )
に遷る。この年、旱魃・飢饉が起こる。
十年(六三八)この年、福亮僧正が法起寺金堂( 上坂廃寺 )を建立する。
(『法起寺塔露盤銘』)。
十一年(六三九)七月、詔して、百済川の辺に大宮と大寺(田原遺跡附近)を造らせる。
十二月、伊予温泉(宮若市 千石峡 )に行幸。百済大寺(田原遺跡附近)の九重塔が建つ。
十二年(六四〇)四月、伊予から帰り、厩坂宮(香春附近か)に滞在する。
十月、百済宮(田原遺跡附近)に遷る。
十三年(六四一)十月九日、百済宮に崩御。
丙午、殯於宮北、是謂百濟大殯。是時、東宮開別皇子、
年十六而誄之。
東宮開別皇子すなわちのちの天智が登場。
※ 舒明天皇は、蘇我氏を嫌悪したようで、宮をすべて 田川の地 に置いたようである。