「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 第11回古代史講座 古代田川を解き明かす
宗像が末盧国なら邪馬台国は田川だ2 (令和元年六月二日、於 田川青少年文化ホール)より
序章 令和も続く「墨塗り教科書」
■ GHQに認められなかった「暫定教科書」の内容
國史教育から歴史教育へ(その2 ・完)
時代による変化と現代的課題について
田村 孝 (2015敬愛大学国際研究/第28 号)
(3) 暫定国史教科書の編纂
「一 國の基」の部分には問題がある。ここでは、大和朝廷の
起源は九州にあるとされ、以下のように叙述がつづいている。
「古い傳へによりますと、わが神話で、ニニギノ尊の後と
いはれる神武天皇は、しばらくゆかりの深い日向にあつて政を
おとりになつてゐましたが、やがて兄君と御相談の上、大八洲の
なかほどに移ることをお考へになりました。
ここに多くの人たちを引きつれ、日向を御出発になり瀬戸
内海の地方を從へながら、長い年月を重ねて難波にお着きに
なりました。
めざす大和の國境では長すね彦といふ豪族が、地の利に
たよつて御軍に手むかひました。
やむなく天皇は海路を紀伊の熊野へと、おまはりになりました。
「二 祖先の傳へ」のある箇所では以下のようになっている。
「…… 遠い遠い神代の昔、伊弉諾、伊弉冉の二神は、美しい大八洲國をお生みになり、これを御子天照大神にお傳へになりました。
大神は御徳きはめて高く日神とも申しあげるやうに、御惠みは廣く大八洲にあふれました。大神は御弟素戔嗚尊を始め奉り、
多くの神々をひきゐて高天原にあらせられましたが、さらにこの大八洲を安らかな國になさらうとして御子孫をこの國土にお降しに
なることをお考へになりました。」
⇒ ※ 占領軍に認められなかった「暫定国史教科書」