「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 第11回古代史講座 古代田川を解き明かす
宗像が末盧国なら邪馬台国は田川だ2 (令和元年六月二日、於 田川青少年文化ホール)より
※ YouTube動画「令和元年6月2日(日) 宗像が末廬国なら邪馬台国は田川だ2 」はこちらからご覧になれます。
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終戦時に指令が出ている。戦争関係や戦意高揚関係といったものについては、これを教えてはいけないということでしたが、
戦後直ぐでしたから、戦前の教科書を使った。だから、具合の悪い所は墨を塗れということから始まった。
その「
墨塗り教科書 」についての解説へ
国史教育から歴史教育へと変わる。暫定国史教科書というのが、昭和22年くらいに編集された。教科書の目録を見れば、
今の教科書と大して変わらない内容の項目ですが、GHQに認められなかった「
暫定国史教科書 」の内容へ 。
戦後史学の中で「大和朝廷の起源は九州にある」などの内容が消された結果、「邪馬台国畿内説」というのが、大威張りで
宣伝されて、「邪馬台国九州説」が反比例的に縮小された。
■ 立岩式石包丁の示す土地で最も早く稲作が始まった。そこに成立した国が
天満倭国=倭奴国 である。
文献にあるように樂浪郡から12,000里のところは、楽浪式土器の伝播図が示す豊国である。
■ 神武天皇(初代倭国王)が倭奴国を滅ぼし、西暦121年に
倭国=邪馬台 国を創始 する。
卑弥呼の時代の80年前である。『魏志倭人伝』にその事が書かれている。
その神武天皇の崩御した後、神渟名川耳尊(2代目綏靖天皇)が、手研耳命を殺害し王位を奪う。
その後、倭国大乱が起こる。中国の記録から年代がピッタリ合っている。
■ 『日本書紀』崇神天皇紀に倭国大乱の事が書かれている。その後が、卑弥呼の時代。そこに登場する都怒我
阿羅斯等は、豊国から敦賀の気比へ行った。
新羅から河原に来た神が
都怒我阿羅斯等と卑弥呼 の関係では、ないか。
■ 『仲哀記と神功皇后紀』より筑紫の末羅の縣が、『魏志倭人伝』の末盧國であり、今の宗像・福津である。
また、香春ノ神が比売語曽神社であるように卑弥呼ではないか。田川に倭・女王国の都がある。
史書に書かれた
帯方郡から倭・女王國へ を示すと「宗像が末盧国なら邪馬台国は田川だ2」となる。
■ 都怒我阿羅斯等が、天日槍と同一人物であれば、その5代の孫、田道間守から
田川と若狭・但馬の繋がり
が見えてくる。
その若狭・但馬で、卑弥呼の時代に呉から兵士がやってきている。史書の記録に合わせた伝説がある。それが、
浦島太郎の拉致である。
卑弥呼の時代の呉(孫権の時代)では、謝承が『後漢書』を著し、その後に 陳寿はその『後漢書』を見て
『三国志』を書いている。『後漢書』を著した謝承は、浦島太郎を見た呉の人の一人だった?
■
卑弥呼の死 の原因は、狗奴国との戦いに敗れて責任を取らされて自決させられたか?その狗奴国と倭国の
の事が記録されている。
『魏志倭人伝』に卑弥呼の墓について書かれている。殉葬のことが書かれている。埴輪が出土する奈良県の
箸墓が、卑弥呼のではない。
■ 卑弥呼の死後、卑弥弓呼と日本武尊の戦いが『日本書紀』景行天皇紀に書かれている。景行天皇は、
肥後圀から出て来て、
豊国を北伐 していく。
■ 景行天皇と
日本武尊は、伊服岐能山で戦い 、敗れて深手を負った。足立山の麓にある葛原八幡神社
には白猪が祀られており、その足立山が記(紀)に書かれている伊服岐能山(胆吹山)と思われる。
■ 戦いに敗れ深手を負った日本武尊は、思國歌を歌って亡くなる。その墓から白鳥となって倭に帰ったと
いう
白鳥伝説 がある。その飛び去った白鳥が、留まった場所に陵を作った。
そこが、白鳥陵である。
日本武尊がいた場所は、鞍手町の剣岳である。その隣が『魏志倭人伝』に書かれた伊都国の津、新北津で
ある。伊都国には一大率が置かれた。長官が、爾支である。
その人が日本武尊で、卑弥呼の死の直後に景行天皇(卑弥弓呼)と戦った倭国の天皇である。
※ 近畿にも白鳥陵 があるが、すべて明治時代になってから。
■
氣長足姫尊天皇の征西 から明かす『魏志倭人伝』の末廬国は、宗像・福津(筑紫の末羅の縣)であり、
唐津市呼子(肥前国の松浦県)ではない。
『古事記』に書かれた神功に滅ぼされた勝門比売のいた場所は、伊都国宮地嶽神社の祭神が勝門姫で
あったことから明らかとなった。
また、『日本書紀』に「北のかた、火前(肥前)国の松浦県に到る」と書かれた謎は、本当の橿日宮の
位置から『古事記』にある「筑紫の末羅の縣」が、宗像・福津だと解けた。