「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 宗像が末廬国なら邪馬台国は田川だ2

※ 第11回古代史講座 古代田川を解き明かす
  宗像が末盧国なら邪馬台国は田川だ2 (令和元年六月二日、於 田川青少年文化ホール)より

本章 記紀から解く魏志倭人伝  ①神武天皇紀

■ 天満倭国=倭奴国成立

前一四 饒速日(天照大神)、
   葦原瑞穗國の笠置山に降臨
「発掘『倭人伝』」下條信行氏原図
立岩式石包丁(倭奴國の版図)・今山今山産石斧の流通図

 (*1)頭に付く「豊」の字は、文学の世界でも美称=美しい飾り言葉だという。これが大間違い。ここは豊国(豊前国)でしょ。
   「豊」は、実事でしょ。実体でしょ。筑豊の方でしょ。これで、「豐葦原瑞穗國」がどこにあるか判らない事になった。
   挙句の盾に宮崎県に持って行かれた。宮崎県は、日向国ですよ。

 (*2)垂仁天皇 十六年 (紀元  前十四年 )饒速日(天照大神)が、  笠置山 に降臨した伝承が、鞍手郡宮田町磯光に鎮座する天照宮
    社記等に残る。

 

天満倭国 = 倭奴国成立
後五七 倭奴国王(天孫本紀に云う
   天香語山命か)、漢光武帝に
   遣使。金印を受く。
『翰苑(かんえん)』「憑山負海鎮馬臺以達都」
「金印(漢委奴国王)」
「金印の印影(漢委奴国王)」

 (*3)紀元57年に漢光武帝から金印を貰った王が、先代旧事本紀の饒速日の息子、天香語山命でないか。天香山が、金・銅が
    採れる香春三ノ岳である。奈良県の天香具山は、つい最近、江戸時代の終わり頃にやっと名前が付いた偽物である。
    本居宣長、蒲生君平が勝手に付けた名前である。精々、300年前に付いた名前である。奈香春三ノ岳は天香山の名前が消されたが、
    金と銅が採れる。
    天香語山命は、香春三ノ岳の麓辺りに宮を構えていたであろうから、奈香春三ノ岳は天香山の名前が消されたが、金と銅が採れる。
    博多の志賀島から出たとされる金印も当然、香春にあったであろう。

 

倭奴国と楽浪郡の里程
倭國
憑山負海鎭馬臺以馬臺以建都
 後漢書曰、倭在朝(鮮)東南大海
中、依山島居、凡百餘國。自武帝滅
朝鮮、使譯通漢於者州餘國、稱王、
其大倭王治邦臺
 樂浪郡儌、去其國万二千里。甚地
大較在會稽東。与朱雀・儋耳相近。
(謝承後漢書)
樂浪郡→樂浪郡    (隋書俀國傳)
「范曄後漢書」(さかい、とりで
※ 樂浪郡徼は、樂浪郡治の謂いか

 『後漢書』の記録では、『魏志倭人伝』の帯方郡からでなく、樂浪郡から12,000里とある。樂浪郡は、現在のピョンヤンです。
帯方郡は、下記の「楽浪式土器伝播図」にある位置より南、ソウルだと思います。帯方郡はソウル説です。
一番古い中国の古典には、樂浪郡から香春までの距離が、12,000里だと書いてある。

「楽浪式土器伝播図(倭国)」

 楽浪郡
  ↓ 海岸に沿って

 巨済島
  ↓ 海を渡る

 対 馬
  ↓ 海を渡る

 壱岐(原の辻)
  ↓ 海を渡る

 香春(倭奴国)

 里は、中国の文献と出土した物差しから考えて、  1里は50歩で67.5m という説を出している。したがって、
1,000里は、67.5kmとなる。
 1歩というのは、2足。今の日本人の2歩で、その距離が1.35mとなり、1里は67.5mとなる。その里を
用いている。