「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 宗像が末廬国なら邪馬台国は田川だ2

※ 第11回古代史講座 古代田川を解き明かす
  宗像が末盧国なら邪馬台国は田川だ2 (令和元年六月二日、於 田川青少年文化ホール)より

本章 記紀から解く魏志倭人伝  ①神武天皇紀

■ 倭国=邪馬台国創始

「豊国 対 火国」
謝承・范曄後漢書)
一四六~一八九 
  桓・霊の間、倭国大乱。
一三九
  皇子神渟名川耳尊、手研耳命大王を弑し
  王位を奪う。
 「太歳己卯」
(魏志倭人伝)部分
版本『魏志倭人伝』「其國本亦以男子為王 住七八十年」
一二一
 「辛酉年の春正月の庚辰朔に、天皇、橿原
  宮に於いて帝位に即きたまふ」 神武即位
倭国=邪馬台国創始

 豐葦原瑞穗國を治めていた金印を貰っていた国=倭奴国を熊本県の菊池方面から出てきた神武が豊の国へ攻め込んできて
倭奴国を滅ぼす。即位したのが、西暦121年=辛酉年である。
 『魏志倭人伝』に「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼」と
あるように卑弥呼の即位の丁度80年前の121年である。
 神武こそが、初代倭(邪馬台 やまと)国王である。倭王朝は、豊国に興った。

 139年に神武の長男、手研耳命大王が香春の物部氏の姫との間に生まれた神渟名川耳尊(後の綏靖)に暗殺される。この後に
倭国大乱が起きる。
 中国の史書から丁度この西暦(146~189年)です。
 大きくは、「豊国(香春)」VS「火国(菊池)」です。

 神武は、香春町の  鶴岡八幡宮 で即位した。ここが、本物の橿原宮である。何故かは知りませんが、鶴岡を「つるがおか」と
読みます。鎌倉の鶴岡八幡宮より50年早く建てられた神社です。

 神武は、畝傍東北陵に葬られたとある。香春三ノ岳が、天香山だと説明しましたが、香春一ノ岳が丁度、倭三山の香山から
見て山の畝の尾っぽの山が、一ノ岳になる。「うねび山」=畝尾山と『古事記』、『日本書紀』に書いていました。その畝尾山
(香春一ノ岳)の東北の位置にぴったり「  おほきんさん 」と呼ばれる弥生時代の円墳がある。
 これが本物の神武天皇陵だろう。

 

139年、
(手研耳命、)(ふたり)の弟を害せむこと
 を図る。
 時に、太歳(おおとし) 己卯(つちのとう)
」。
136年春3月、
神日本磐余彦天皇崩ず。時に神渟名
 川耳尊、特に心を喪葬の事に留む。
 其の庶兄(いろね) 手研耳命、行年(すで)()けて、
 久しく朝機を()たり
」。
手研耳(たぎしみみの)(みこと) 暗殺さる
倭国大いに乱れ、歴年(146~189)
主無し
「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
綏靖天皇

 

 (やまと) の桃花鳥田(つきだの)丘上(おかのうえの)(みささぎ)(田川市
(ほしい)の天神山古墳4基中の一か、附近
に月ノ輪)に葬る
綏靖の陵
 神渟名川耳尊がその兄の持つ弓矢を
取って、手研耳命を射る
 一の矢が胸にあたり、二の矢が背に
あたり、ついに殺した。
犀川よ 雲立ちわたり 畝尾山 
 木の葉さやぎぬ 風吹かむとす
「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
綏靖天皇

 香春町の宮原にGoogleマップで見ると堀の跡まで残った大きな前方後円墳がある。   宮原古墳群 です。
まわりにまだ4、5基ある。
 直ぐ近くに宮原遺跡がある。この宮原遺跡を古い方の『香春町町史』には、宮原古墳と書いてあるので、
間違いなく宮原古墳は2基あることになる。
 出土物より奈良県にあるホケノ山古墳より100年も古い。卑弥呼の時代より前の時代の古墳になる。