「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 宗像が末廬国なら邪馬台国は田川だ2

※ 第11回古代史講座 古代田川を解き明かす
  宗像が末盧国なら邪馬台国は田川だ2 (令和元年六月二日、於 田川青少年文化ホール)より

本章 記紀から解く魏志倭人伝  ②崇神天皇紀/③ 垂仁天皇紀 

神明(あまてらす)(やまと)迹迹(とと)日百襲(びももそ)姫命(ひめのみこと)=卑弥呼の候補
 その卑弥呼と都怒我阿羅斯等の関係

180年春、
時に、大物主神が神明(あまてらす)(やまと)迹迹日百襲(ととびももそ)姫命(ひめのみこと)
 に憑いて、我を祭らば国は治まるであろうと
 告げた
。神の教えのとおりに祭ったが霊験は
 なかった。
179年
人民が流浪し、ある者は反乱した。天皇は
 天照大神・(やまと)大国魂(おおくにたま)(=大物主神(おおものぬしのかみ)、二神
 を、宮殿内に共に祭り、(あまつかみ)  ( くにつかみ)に罪を
 請うた。
178年
国内に疫病が多く、民の大半が死亡する。
174年、
 祟神天皇即位。
「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
崇神天皇

 

霊帝の光和(178~184)中、
 倭国乱相攻伐歴年
184年、四道将軍が、戎夷(ひな)を平定。
183年武埴安彦(たけはにやすびこ)の乱。
この神酒(みき)は わが神酒ならず 
(やまと)成す 大物主の ()みし
神酒 幾久(いくひさ)幾久
180年秋、
天下に布告し、大田(おおた)田根子(たねこ)を求めると、
 茅渟(ちぬの)(あがた)陶邑(すえのむら)宗像市須恵)に彼を捜し
 当て、11月に大物主神を祭らせた
  すると、疫病が初めて終息し、国内が
 次第に静まり、五穀がみのり、人民が賑
 わった
「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
崇神天皇

 

 正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等
 奉詔書印綬  
二四〇 魏使 邪馬台 国に至る
(魏志)
二三八 景初二年六月、邪馬臺國の女王(に
  して神武の後継者たる)卑弥呼、魏の
  方郡
に大夫難升米等を遣はす。
(新羅本紀一七三)
二三三 倭の女王卑弥呼、使を遣はし来聘す。
(三国志呉書「孫権伝」黄竜二年)
二三〇「将軍衛温・諸葛直を遣はし、甲士
 万人を率ゐて海に浮び、夷州(推定
 狗奴国)および亶州(推定東鯷国)を
 求む」
(魏志韓伝・倭人伝、日本書紀 神功皇后紀)
二〇〇(一九六~二二〇 建安年間)
  卑弥呼共立か。
卑弥呼即位から遣魏使

 230年に若狭方面(亶州(推定東鯷国))に呉の兵士が来ている。
 238年、朝鮮半島の公孫氏(こうそんし)が滅んだ時に卑弥呼はすかさず帯方郡に遣いを送った。
 240年に魏の遣いが邪馬台(やまと)国に来ました。原文は、「詣國」。つまり、「倭」を訓読みすると
やまと」に至ると書いている。だから、  「邪馬台」は本来、「やまと」と読む べきだった。
 その時代に活躍したのが、『日本書紀』崇神天皇紀に書かれている都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)である。

198(年、穴門(あなと)(関門海峡)に到った時、
  伊都(いつ)都比古(つひこ)に会った。
   彼は『私がこの国の王だ。私以外に
  二人の王はいない。
   他所に行くな』と言ったが、私は王
  ではあるまいと思い、島々浦々を伝っ
  てここ(角鹿)に来た」と答えた。
200年、額に角のある人が越国(こしのくに)(福井
  県)の笥飯(けひ)(気比)浦に停泊した。
  そこを角鹿(つぬが)(敦賀)と名付けた。
   「どこの国の人か」。「意富加羅(おほから)
  の王の子、名は都怒我(つぬが)阿羅斯等(あらしと)
   日本国に聖王がいると聞いて、この
  国に来た。
「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
崇神天皇

 都怒我阿羅斯等は、最初に穴戸(関門海峡)に来ている。そこであったのが、伊都都比古(いつつひこ)という王で
ある。「いつつひこ」ですよ。『日本書紀』にそう書いている。「いととひこ」などと「都」を「と」などと
読まない。「つ」と読む。これ(都怒我阿羅斯等)も「ぬがあらしと」です。「とぬがあらしと」とは読みません。
 だれが、これ(都怒我阿羅斯等)を「とぬがあらしと」と読むんですか?卑弥呼の時代は、伊都国は、「いつこく」
なんです。『日本書紀』の時代も  「都」は「つ」 と読んでいるから、「つ」です。

 記紀によれば、198年穴門に至り
200年に
気比に去った

ことになる。
 卑弥呼共立
の年に都怒我
阿羅斯等は気
比神宮周辺に
到着した
 都怒我阿羅斯等大加羅国から崇神の
死ぬ直前に穴門に来た。
 崇神が亡くなって垂仁に三年仕えた後
、垂仁の元を離れ、日本海を東に遷り、
敦賀の気比に到ったという話になる。
敦賀市
「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
崇神天皇
垂仁天皇

 「角鹿」が改まって、「敦賀」となった。

崇神天皇紀
香春町鶴我家系図
香春町の鶴我家系図(都怒我号角鹿)
香春町の鶴我家系図(始祖 阿羅斯等)

 香春町に「鶴我」さんという方がいらっしゃる。その家に系図のコピーを頂いた。ご先祖は、阿羅斯等です。
都怒我阿羅斯等を先祖とされる方が、香春町にいる。鶴我家は、「都怒我号角鹿とある。
 都怒我阿羅斯等は、どこにいたのか?香春町にある  鶴岡(つるがおか)八幡神社 である。西日本新聞に『新説 日本書紀』を
出した時には、現人神社と書きましたが、訂正します。鶴岡八幡神社である。宮司さんは、鶴我さんである。
 都怒我阿羅斯等の子孫の鶴我さんが、今なお鶴岡八幡神社の宮司さんである。
 神武天皇が、この地で即位した80年後に大加羅国から都怒我阿羅斯等がやってきてここに住んだ。その子孫の
鶴我さんが宮司をされている。ただの偶然ですかね?

 では、伊都
都比古
とは何
者か。
 私が飯塚の
王とした垂仁
天皇
に他なら
ない。
伊都(いつ)つ彦
だ。
 最初、穴門に来た都怒我阿羅斯等
3年間どこにいたか。
 香春町高野にある鶴岡八幡神社であ
るようだ。
鶴岡八幡宮(香春町高野)
「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
垂仁天皇

 

「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
垂仁天皇
 都怒我阿羅斯等は本国にいた時、白石
を寝室に置いていたら、その神石が美し
い童女
となった。
 阿羅斯等は喜んだが、留守の間に童女
が消えた。
 その足跡を追って海を渡り、日本国
来た。
 童女は、難波に行き比売語曽(ひめこそ)となり、
豊国国前(くにさき)郡に到って、また、比売語曽社
の神
になった。
 豊後の国埼郡の比売語曽神社(大分県
姫島村)とする説が有力だが、豊国国前
郡を豊前田川郡香春だとする説
も古くか
らある。

 都怒我阿羅斯等は、消えた童女を追って、海を渡って日本国にやってきた。その童女は、比売語曽神となった。
 比売語曽神を祀る神社は、豊後の東国東郡姫島村の比売語曽神社。それから、糸島市志摩姫島の姫島神社も
比売語曽神が祀られている可能性がある。大阪市東成区にも比売語曽神社がある。

「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
垂仁天皇
 香春神社の縁起の一節に、
韓地に於ける大姫命の霊は、実に白石の
 玉
と示し給う。しこうして、この三山は
 、白石幽妙(ゆうみょう)の神縁
なり。けだし、上古
 より、この山に臨座有り」
とある。
 「太宰管内誌」にも、
「谷川氏云う、香春ノ神は又比売語曽神社
と号す」とある。
(『古宮八幡宮と宇佐神宮の御神鏡』から
 採録)
 繰り返すが、真の「倭三山」(香春岳)
白石の山だったのである。

 ところが、『太宰管内誌』という江戸時代の伊藤常足が著した本の中には、香春神社の場所が又比売語曽神社だと
いっている。
 香春神社の縁起の一節に「韓地に於ける大姫命の霊は、実に白石の玉と示し給う。しこうして、この三山は、
白石幽妙(ゆうみょう)の神縁なり。けだし、上古より、この山に臨座有り」とあるように、香春岳は、石灰岩の
山だから草木が生えていない時は、真っ白に輝いていた。

韓地に於ける大姫命
 =「白石の玉
倭三山(香春岳)
 =白石の山
(太宰管内志)
香春ノ神は比売語曽神社!
「比売」(こそ) → 卑弥呼!

 比売語曽神社の語曽は、人の名字で村社(むらこそ)とか、社の一文字で「こそ」と読む。そうすれば、
比売語曽神社というのは、比売神社神社ということになる。単純にいえば、比売社(ひめしゃ=ひめこそ)で
良いことになるので、個体でいえば、「比売」である。
 田川を中心に筑豊のあちらこちらに比売大神が町られている。この香春神社に祀られている辛国息長大姫大自命
(カラクニオキナガオオヒメオオジニミコト)は、ひょっとして卑弥呼ですよ。辛国から来ている。朝鮮半島の南部までは、
(やまと)の国でしたから。それは、明らかです。遺跡(前方後円墳)がいっぱい残っている。

崇神天皇紀の最重要点
崇神天皇
 =御間城入彦天皇
   (任那からの入日子
 =都怒我阿羅斯等(天之日矛)
崇神天皇の皇后
 =御間城姫任那からの姫
 =倭迹迹日百襲姫命
       (日本書紀)
 =辛国息長大姫大自命
       (香春神社の神)
 =卑弥呼
※ 新羅から河原に来た神!

 今日出した結論は、新羅から河原に来た神が、都怒我阿羅斯等卑弥呼の関係ではないだろうか。
 卑弥呼は、香春の地で即位し、赤村の大原に遷った可能性が見えてきた。

 

神功皇后の系図(古事記より)

 開花天皇は、香春の天皇。天之日矛は、都怒我阿羅斯等の可能性がある。神功皇后は、なぜ豊国まで攻めてきたのか?
自分の先祖の土地に返り咲こうしてやってきた。