「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 宗像が末廬国なら邪馬台国は田川だ2

※ 第11回古代史講座 古代田川を解き明かす
  宗像が末盧国なら邪馬台国は田川だ2 (令和元年六月二日、於 田川青少年文化ホール)より

本章 記紀から解く魏志倭人伝  ④景行天皇紀

■ 大帯日子命は、卑弥弓呼か?

 『謝承後漢書』に卑弥呼の死後、男王がたったが、また、国中が服しないで相誅殺する。その後、台与がたって
収まったと書かれている。

景行天皇  臺與(とよ)
卑彌娥惑翻叶群情臺與
幼齒方諧衆望
 後漢書曰安帝永初元年、有 倭面上
國王師升
至。
 桓・遷之 間、倭國大乱、更相攻伐、
歴年無主
 有一女子名曰卑弥呼、死更立男王、
國中不服、更相誅殺
、復立卑弥呼
宗女臺與、年 十三爲王、國中遂定。
 其國官有 伊支馬、次曰弥馬升、次
曰弥馬 獲、次曰奴佳鞮之也。
(翰苑)
(謝承後漢書)

 『景行天皇紀』には、南から北へ侵略した地名が書かれている。したがって、景行天皇は、豊国の天皇では無い。
つまり、狗奴国の卑弥弓呼である可能性が大である。

景行天皇の豊国北伐
 天皇、初將 討 賊、次 于柏峽大野 
、其野有 石、長六尺・廣三尺・厚一尺五
寸。天皇祈之曰「朕得 滅 土蜘蛛 者、
將蹶 茲石 、如 柏葉 而舉焉。」因蹶
之、則如 柏上 於大虛 。故、號 其石 
曰 蹈石 也。

(景行天皇紀)
日向または肥後の国から出た大帯日子命
 (卑弥弓呼)
は、火国を北上し、宇佐 →
 御木(豊前市) → 高羽(田川) → 緑野
 (添田町小緑) → 來田見(北九州市朽網)
 と明らかに豊国北伐を行っている。
帝踏石(北九州市小倉南区朽網西二―二八)
 が現実に存在。

 

景行帝の北伐路(一)
地図「宇佐~田川・香春」

 

地図「小倉南区・行橋市周辺」
 景行帝の北伐路(二)
景行天皇の豊国北伐

 

 『景行天皇紀』に書かれている「蹈石」と呼ばれる石が、この  帝踏石  である。この石が、小倉南朽網(くさみ)にある。
昔は、來田見(くたみ)と呼ばれていたのであろう。

写真「帝踏石」

帝踏石(北九州市小倉南区朽網西2-28)