「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 宗像が末廬国なら邪馬台国は田川だ2

※ 第11回古代史講座 古代田川を解き明かす
  宗像が末盧国なら邪馬台国は田川だ2 (令和元年六月二日、於 田川青少年文化ホール)より

本章 記紀から解く魏志倭人伝  ④景行天皇紀

■ 日本武尊は、胆吹山(足立山)で戦かい敗れた?

 倭国の中心部(田川)が、景行天皇に征服されるから、これに立ち上がったのが日本武尊である。 その場所が、
鞍手町の 剣岳である。
  伊勢神宮(宮若市磯光の天照神社) を拝んで、草薙剣(天叢雲剣)をいただいて、川上梟帥の征伐に行った。
この話が  田川市の猪膝 に伝承として残されている。日本武尊が、土折・猪折を征伐する。田川の地を取り戻した。

「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
景行天皇
 265年ごろ、「東に行き、反乱者を討伐
するため」、剣岳を発した日本武尊が、途中
伊勢神宮(天照宮)を拝む。
 伯母の倭姫命から草薙剣(三種の神器)を
受け取った。
 熊襲国に到った日本武尊は、川上梟帥の夜
宴に女装して紛れ込み、川上梟帥を刺殺する。
 高羽の川上の土折・猪折を指すようだ。
 そうであるなら、土折猪折は初めに景行に
帰順し、後に日本武尊に誅殺されたのかもし
れない。
 こうして「熊襲の酋長ら」を倒して日本武
尊は熊襲国を平定する。
 実は、田川の失地を回復した。

 鞍手町の剣岳。この中世の城の下が弥生時代の日本武尊の居城の跡のハズである。『古事記』、『日本書記』に
書かれているように日本武尊の相手は、熊襲梟帥とか川上梟帥という。
 『日本書紀』には、「××川上」とあるように川上梟帥を女装して征伐した。

 剣岳城

Ⓒ鞍手町教育委員会

Ⓒ建部大社

 日本武尊は、景行軍との最後の戦いに草薙剣を美夜受比賣の許に置いて出かける。伊服岐能山の神を取りに
いって敗れる。

倭建命天皇の倭国防衛戦
 其の國より科野(しなの)の國に越え、乃ち科野の
坂の神を言向けて、尾張の國に還り來て、
先の日に期りし美夜受比賣(みやずひめ)の許に入り坐し
き。
 是に(おお)御食(みけ)を獻りし時に、其の美夜受比
賣、大御酒盞(おおみさかづき)を捧げて以ちて獻りき。
 爾くして美夜受比賣、其の意須比(おすひ)(すそ)
月經(さわり)著きたり。
故、其の月經を見て御歌に曰く、
 ひさかたの 天の香具山 とかまに
 さ渡る(くひ) 弱細(ひはぼそ) 手弱腕(たわやがいな)を ()かむ
 とは 吾はすれど さ寝むとは 吾
 は思へど 汝が()せる 意須比の(すそ)
 に 月たちにけり

 

倭建命天皇の倭国防衛戦
 故、爾くして御合して、其の御刀(みはかし)草那
藝の劍
を以ちて、其の美夜受比賣の許に置
きて、伊服岐能(いふきの)(やま)の神を取りに幸行しき。
          (伊吹山の神に敗れる)
 其より幸行して、能煩野(のぼの)に到りし時に國
を思ひて以ちて歌ひて曰く、
 (夜麻登)は 國のまほろば 
 たたなづく 青垣 山ごもれる
 しうるはし
 また歌ひて曰く、
 命の 全けむ人は 畳薦 平群の山の
 熊樫が葉を 髻華に挿せ その子
 此の歌は思國歌(くにしのひうた)なり。
(古事記 景行天皇記)

 伊服岐能山の神が、氷雨を降らせたとあるのは、弥生時代の鉄鏃の矢を降らされた事である。日本武尊は、
鉄鏃の矢に負けたと考えている。

「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
景行天皇
 日本武尊が胆吹山に到ると、山の神が
大蛇(古事記は「牛のごとき白猪」)に
化けて道をふさいだ。
 尊は神の使いだろうと高をくくって進
んだ。山の神は雲を起こし、氷雨を降ら
せた。
 「峯霧り谷暗く」なり、尊は行くべき
道を失う。
 強引に下山したが、尊は初めて「身を
痛め」た。
 つまり、景行軍に待ち伏せされ、(鉄
鏃の)矢を(あられ)のごとく降らされ
、尊は初
めて敗戦し、自身も深手を負ったようだ。
※ 敵の弾丸雨あられ
ちはやふる神=千羽矢降る

 

映画「Redcliff」で使われた「十万本の矢」
の船。5000本刺さっている。

中世の合戦図

 

 白猪は、北九州市の足立山の麓にある葛原八幡神社に祀られている。和気清麻呂の時代に足立山と名前が変え
られた。その前は、どうも伊服岐能山、胆吹山だったようである。
 麓には、城野遺跡などがあり、箱式石棺が出土されている。北九州市も当然、邪馬台(倭)国連合の国が企救
半島にもあった。

 

 足立山 (北九州市小倉北区)

 

九州最大規模の方形周溝墓から出土した幼児の箱式石棺2基。高価な中国産の水銀朱が惜しげも
なく塗られた子どもの石棺。クニのリーダー(権力者)の子ども(王子)の墓と言われています。

 

 戦に敗れて日本武尊が足立山(伊服岐能山)を降りてきて、居醒泉(ゐさめがゐ)という所で足を付けて、やっと我に返った
とある。その居醒泉という場所は、葛原八幡神社から500m足立山に登った所に清水原という場所である。

清水原 居醒泉(ゐさめがゐ)