「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 第11回古代史講座 古代田川を解き明かす
宗像が末盧国なら邪馬台国は田川だ2 (令和元年六月二日、於 田川青少年文化ホール)より
本章 記紀から解く魏志倭人伝 ④景行天皇紀
■ 近畿の白鳥陵は、明治以降。日本武尊の伝承もない。
近畿の白鳥陵 ①
<伊勢の能褒野墓>
近世には白鳥塚(鈴鹿市石薬師町)・武備塚(鈴鹿市長沢町)・双子塚(鈴鹿
市長沢町)の3説があり、明治9年(1876年)までには教部省により白鳥塚に定め
られたが、明治12年(1879年)に宮内省(現・宮内庁)により3説のいずれでも
ない現墓の丁子塚(能褒野王塚古墳)に改定された[14]。詳細は「能褒野王塚古
墳」を参照。
なお「のぼの(能褒野/能煩野/能裒野)」とは、鈴鹿山脈の野登山(ののぼりやま)
山麓を指す地名と推測される[1][14]。
この「のぼの」の地が選ばれた背景としては、化身の白鳥が「天空にのぼった」
という物語が既に存在し、後世にその物語への付会として「のぼの」の地名が結
び付けられたとする説が挙げられている[14]。
※ 付会:道理に合わないことを無理にこじつけること。
近畿の白鳥陵 ②
<大和の白鳥陵>
『古事記伝』では現陵に関する記述が見える[13]。明治9年(1876年)に教部
省により考定された[12]。
伊勢・河内に比べ小規模であることなどもあり、別に掖上鑵子塚古墳(奈良県
御所市柏原)に比定する説もある[12][13]。「白鳥陵」も参照。
近畿の白鳥陵 ③
<河内の白鳥陵>
明治8年(1875年)に教部省により伊岐宮(現・白鳥神社)の白鳥神社古墳に
考定された が、明治 13年(1880年)に現陵(軽里大塚古墳/前の山古墳)に改
定された[12]。
現陵は、『河内国陵墓図』では木梨軽太子の「軽之墓」と記されている[12]。
かつては西方の峯ヶ塚古墳に比定する説もあったという[21]。「白鳥陵」および
「軽里大塚古墳」も参照。