「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 宗像が末廬国なら邪馬台国は田川だ2

※ 第11回古代史講座 古代田川を解き明かす
  宗像が末盧国なら邪馬台国は田川だ2 (令和元年六月二日、於 田川青少年文化ホール)より

卑弥呼の時代の豊国と但馬・若狭の関係(田道間守と浦島太郎)

 東鯷国から倭国への使者の話も垂仁紀
末尾にある。
 卑弥呼が、共立された時から外交政策
を考えていたなら、彼女は遠交近攻策を
採っていた
のではないか。
 その時、南の狗奴国と緊張関係にあっ
た卑弥呼が、後漢書に書かれた「東鯷(とうてい)
(近畿にあった国)
」と友好関係を結ぶ
ために、密使として阿羅斯等を派遣した
のではないかと考えられる。
 都怒我阿羅斯等卑弥呼の側近だった
可能性もある。
「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
垂仁天皇

 

 八竿八縵の非時の香菓が、どうやら
前の串柿・吊し柿(干し柿)
のようであ
る。田道間守は但馬国と豊前国とを往来
したようである。
 天日槍(あめのひほこ)但馬国(兵庫県)に定住した。

 5代の孫が田道間守(たじまもり)である。使者とな
り、10年を経て常世(とよ)=豊国)から
八竿八縵(やほこやかげ)非時(ときじく)香菓(かぐのこのみ)」を携えて帰
国したが、聖帝は死んでいた。陵の前で
「おらび哭き」、自死した。
 阿羅斯等と同工異曲の伝説がある。
「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
垂仁天皇

 「おらび哭き」と『日本書紀』に書いてある。「おらび哭く」は、九州弁です。『日本書紀』や『萬葉集』には、
九州弁が覗いている。だから、「ヤマト」は九州にあった。

お菓子の神様

 田道間守公

(みかん)
持ち帰った
ことになって
いる。
四天王寺ワッソの多遅摩毛理
「四天王寺ワッソの多遅摩毛理」
絵「田道間守公」

 『古事記』に書かれた「非時の香菓」は、干し柿です。

香春町採銅所で
  古くから作られている吊し柿
 (1996年ごろ。森下重和氏提供)
香春町採銅所の「吊るし柿」

 田川とと若狭・但馬の繋がりがわかるように、「丹後半島の古墳群」の地図内に記載された赤字は、すべて古墳が
示されている。

丹後半島の古墳群

京丹後市の
神明山古墳

地図「丹後半島の古墳群」
Google Earth「神明山古墳」

 西暦230年に呉の兵士が、やって来ている。この丹波国から兵士として呉に無理やり連れていかれたのが、
初代の浦島太郎だと思われる。拉致事件。浦島太郎は、呉の會稽まで連れていかれる

二三八 「司馬懿、淵を破り、その首
  を都に送る。海東平ぐ。
」 
         (三国志魏書景初二年)
二三七 「淵、遂に立ちて燕王を自称
  し、魏の北方を侵す。
」 
         (三国志魏書景初元年)
二三二 「三月、呉使を遼東に遣はす。
  七月、(公孫)淵、使者二人を
  遣はし、呉王孫権に意を通じ、
  貂馬を献ず。権、悦び淵に
  叙爵す。
」  (三国志呉書嘉禾元年)
二三〇 「将軍衛温・諸葛直を遣はし、
  甲士万人を率ゐて海に浮び、夷州
  (推定狗奴国)および亶州(推定
  東鯷国)を求む

     (三国志呉書「孫権伝」黄竜二年)
  ※浦島太郎の拉致
卑弥呼の時代の拉致事件

 呉の會稽には、謝承という人物がいた。謝夫人の伝記に孫権の第一夫人の弟に謝承がいて、その人が『後漢書』を
書いたとある。『三国志』に斐松之が注を付けた本の中に「謝承後漢書曰」というのが、いっぱい出てくる。
 だから『三国志 魏志倭人伝』を書いた陳寿という作者は、謝承の『後漢書』を見て、『魏志倭人伝』を書いている

版本『三国志 呉書』 周瑜魯肅呂蒙傳
陳寿(二三三~二九七)
『三国志』斐松之(三七二~四五一)
版本『三国志 呉書』「孫権謝夫人伝」
陳寿の見ていた後漢書
浦島太郎を見た呉の人

 雄略天皇の時代に5代の孫あたりの浦島太郎が、丹波に帰ってくる。これが、地元に残っている伝承のところが、
銚子山古墳である。
 帰ってきた浦島太郎の子孫が、その木に恨みをぶつけたのは、その古墳の主が、自分の先祖を兵士として呉の国に
追いやったからではないか。
 その主は、時代的に卑弥呼と同時代であるから都怒我阿羅斯等=天日槍ではないか?
 銚子山古墳は、都怒我阿羅斯等の墓か?

 竜宮から
帰った浦島
太郎(浦嶋
子)が、こ
こで玉くし
げ(玉手箱)
を開けて顔
じゅうしわ
だらけにな
り、悲しみ
のあまりし
わをちぎっ
て投げつけ
ると、樹皮
がしわで凹
凸になった
と伝えられ
ています。
 銚子山古墳の前方部付近にある
榎の大木。

銚子山古墳
都怒我阿羅斯等の墓?

「銚子山古墳」
「榎の大木」