「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 泌泉が証明する斉明紀・天智紀の紀年の謎と壬申の乱前夜

※ 倭 (やまと)王朝の歴史とその遺構(平成29年3月19日、於 福岡県立大学)講演より

■ 斉明天皇七年 = 天智天皇七年ではないか?

「年表画像」

 『日本書紀』では、漏刻建造の記事は、斉明天皇六年と天智天皇十年に出てくる。
 しかし、糸田町の 泌泉(たぎり) の説明には、天智天皇七年と書かれている。この内容を調べ直してみると『日本
書紀』の斉明天皇七年と『豊前国 舊記』の天智天皇七年は、同じ年ではなかろうか。
 つまり、斉明天皇は筑紫側の天皇、天智天皇は豊国側の天皇だと気が付いた。七年のズレは、本来二つ王朝の同時
に並んでいる系譜を一つに繋ぐからおかしくなる。これが『日本書紀』に書かれている内容である。
 したがって、漏刻は、『日本書紀』の斉明天皇七年(『豊前国 舊記』の天智天皇七年)に建造されている。

『日本書紀 天智紀』

(天智)三年春二月己卯朔丁亥、天皇命大皇弟、宣増換冠位階名及氏上・民部・家部等事。

(この条は全体として、または部分的に天智天皇十年条 と重出しているらしい。〈日本古典文学大系頭注〉)

『日本書紀 斉明紀』

(斉明六年)「方今謹願、迎百濟國遣侍天朝王子豐璋、將爲國主。」云々。送王子豐璋及
妻子與其叔父忠勝等、其正發遣之時見于七年(六六一年)

 『日本書紀 天智紀』の冠位改訂の記事は、天智天皇三年と十年に出てくる。また、『日本書紀 斉明天皇六年』の
王子豐璋を送り帰した記事は、『日本書紀』の注の中にに正しく發遣した時は、七年(六六一年)に見えるとある。
 斉明紀・天智紀・天武紀には、小さくは一年ズレの記事があり、大きくは七年ズレの記事がある。二重のズレの
問題がある。

 したがって、上記に示すように『日本書紀』の紀年と『豊前国 舊紀(泌泉に残された記録)』を並べて整理すると
『日本書紀』の斉明天皇六年の須弥山・漏刻建造は、実は斉明天皇七年の記事ではないか。
 とすると、豊国側では、天智天皇七年に須弥山・漏刻建造されたとなる。何故、『日本書紀』の天智天皇十年にも
漏刻建造の記事があるが、これは、単純に七年と十年を間違えて書いたと考えている。
 明らかに、冠位改訂の記事は、豊国側では天智天皇十年となり、七年ズレであるので『日本書紀』では、天智天皇
三年に出てくる。さらに天智天皇十年にも出てくる。

■ 筑紫君薩野馬の帰国は、天智天皇三年

『日本書紀 天智紀』

天智二年(六六三年)
 秋八月壬午朔戊申(二十七日)白村江に敗戦。

天智十年
 十一月甲午朔癸卯、對馬國司、遣使於筑紫大宰府、言「月生二日、沙門道久・筑紫君薩野馬
韓嶋勝娑婆・布師首磐四人、從唐來曰『唐國使人郭務悰等六百人・送使沙宅孫登等一千四百人、
總合二千人乘船卌七隻、倶泊於比智嶋、相謂之曰、今吾輩人船數衆、忽然到彼、恐彼防人驚駭
射戰。乃遣道久等預稍披陳來朝之意。』」

← これが、豊国側の天智天皇十年だと仮定すると天智天皇三年(六六四年)という事になる。

※ 白村江の戦の翌年に筑紫君薩野馬が帰国。

天智三年の確認
(相国寺の瑞渓周鳳が文明二年(一四七〇)に著わした外交史である善隣国宝記の巻上の一節。)

 海外国記曰、天智天皇三年四月、大唐客来朝。大使朝散大夫上柱国郭務悰卅人・百済佐平
禰軍等百余人、到対馬島 。(中略)
 十二月、博徳授客等牃書一函。函上著鎮西将軍。函上著鎮西将軍。「日本鎮西筑紫
代将軍牃百済国大唐行軍摠管。使人朝散大夫郭務悰等至。(中略)
 牃是私意、唯須口奏一、人非公使、不京。」云々。

※ 對馬(対馬)、郭務悰が記されている同じ内容の記事である。『日本書紀』天智天皇十年の記事は、天智天皇
 三年である。

■ 白村江の戦いの後

白村江の戦いに関連して、太宰府から出土した一方が遠賀軍団印、もう一方が御笠軍団印。

遠賀軍団印

「写真」

御笠軍団印

「写真」
「写真」
「写真」

 白村江の戦いというのは、1千隻の軍船で出かけて行き、負けて帰ってくる。沈んだのは四百隻で、六百隻は
無傷だとハッキリと書かれている。無傷だったのは、たぶん遠賀軍団だと考えられる。これは、豊国側になる。
 御笠軍団は全滅です。だから、白村江の戦いを界にして弟国の位置に落とされていた豊国の天智天皇が、倭国に
おいてナンバーワンの地位に伸し上がった時の原因である。
 御笠軍団は敗れて、遠賀軍団は温存された。軍隊が丸々残った豊国側と精鋭軍が全滅した筑紫側で兄の国と弟の
国の立場が引っくり帰る可能性が出てきた。

■ 天智天皇三年の冠位改定は、実は天智天皇四年

『日本書紀 天智紀』

 天智 四年春二月己卯朔丁亥、天皇命大皇弟、宣増換冠位階名及氏上・民部・家部等事。
大織・小織・大縫・小縫・大紫・小紫・大錦上・大錦中・大錦下・小錦上・小錦中・小錦下
・大山上・大山中・大山下・小山上・小山中・小山下・大乙上・大乙中・大乙下・小乙上・
小乙中・小乙下・大建・小建、是爲廿六階焉。改前花曰錦、從錦至乙加十階。又加換前初位
一階、爲大建・小建二階。以此爲異、餘並依前。其大氏之氏上、賜大刀。小氏之氏上、賜小
刀。其伴造等之氏上、賜干楯・弓矢。亦定其民部・家部。

※ 天武政前紀に「天智年」とある。

 天智天皇三年に冠位改訂の記事がある。天皇が、大皇弟に命じて官位を改めさせた。しかし、天武摂政前紀にも
同じ記事が天智天皇四年と書いている。また、一年ズレである。
 天智天皇四年の本文にも百済から日本に亡命してきた人達に官位を与えている。官位を与えた記事が、全て天智
天皇四年の記事だとすると

・天智天皇三年十一月  筑紫君薩野馬が帰国

・天智天皇四年春二月  大皇弟が、天智天皇に命ぜられて冠位を与え直す

 という事は、かつてはナンバーワンであった倭国本朝の天皇であった薩野馬が白村江の戦いで捕虜になった後に
帰ってきた時には、ナンバーツーであった豊国側の天智天皇が、既にナンバーワンの地位になっているので、薩野馬
はナンバーツーとして、天智天皇の前に出て行った。
 そこで、かつての自分に仕えていた家来達に官位を与え直したのでしょう。

※ 豊国北伐考( 壬申の乱:最後の豊国北伐 )のページへ続く