「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 倭国(豊国)北伐考

・倭国北伐考(スメラミコトの豊国征服譚)(平成28年3月21日、久留米大学)講演
・倭国(豊国)北伐考(平成28年7月31日、於 ももち文化センター)講演

[壬申の乱(最後の豊国北伐)]

 壬申の乱(最後の豊国北伐)は、大海人皇子の 吉野 (山国町吉野)からの北伐である。
 天智天皇は、大海人皇子の軍に破れて淡海の京( 御舘山 )を逃れ、 織幡神社 の崎より入水自殺をした。
大友皇子は、福智山の山麓の場所、山前(福智町山崎)で首を吊って自決した。

※ 壬申の乱は、確実に、「 最後の豊国北伐」である。万が一、天智天皇の死が織幡神社突端の岬からの
 入水自殺の結果であれば、壬申の乱は天智天皇と大海人皇子の直接の争いであった可能性が高い。
  私の「倭歌が解き明かす古代史」の手法は、時に、途轍もない古代史像を私に突き付けてくる。

 「壬申の乱」(最後の豊国北伐)の舞台が、 こちら の地図です。

 

 ■ 大分県中津市山国町吉野にある若宮神社が、吉野宮

壬申の乱 最後の豊国北伐
吉野宮(大分県下毛郡山国町吉野
 若宮神社)の発見
(應神天皇)十九年の冬十月の戊戌
の朔に、吉野宮に幸す。時に國樔
來朝せり。

 其の土(くに)は、京より東南、山
を隔てて、吉野河の上(ほとり)に居
り。峯嶮(さが)しく谷深くして、道
路狹く巘(さが)し。故に、京に遠か
らずと雖も、本より朝來すること希
(まれ)なり。然れども此より後、屢
(しばしば)參赴(まうき)て、以て土毛
を獻る。
齊明二年(六五六年)是歳条
 「又、吉野宮を作る

 

吉野宮(若宮神社)
絵図「山国町吉野地区」
写真「若宮神社」

 

 ■ 白村江戦の敗戦後、唐軍を菟道で閲兵。近江宮は、中間市の御館山にあった

壬申の乱 最後の豊国北伐
天智二年(六六三年)秋八月壬午朔
 戊申(二十七日)白村江に敗戦。
天智四年(六六五年)秋九月庚午朔
 壬辰、唐国、朝散大夫沂州司馬上
 柱国劉徳高等を遣す。
 冬十月己亥朔己酉(十一日)、
 大きに菟道に閲す。
天智天皇六年(六六七年)春三月
 辛酉朔己卯(十九日)、都を近江
 に遷す。
近江宮 中間駅西隣の御館山(今は
 削られて無い。)にあったらしい。
 現地伝承有り。

*.天智四年に唐の劉德高らと一緒に来たのが、2011年に中国の西安で墓誌名が発見された百濟の佐平、
 禰軍(ねぐん)である。
  禰軍は、日本國の降伏を勧める為に劉德高らに従ってきた。この時に、天智天皇は、菟道で閲兵をする。
 この菟道の宮は、著書『真実の仁徳』に書いてある宇治天皇の宇治宮と同じく香春岳三ノ岳(天香山)の
 麓の場所の 阿曽隈社 にあったようです。
  香春町の中には、唐子橋という所がある。間違いなく唐の兵士達が、菟道宮へ入る為に渡った橋であると
 思われる。

  この後の天智六年の春三月に遷都したのが、近江宮です。吉野宮を発見した後、近江京は何処か探した
 ところ数年の調査で中間市中間駅の西隣の御舘山(今は、団地が建てられ、削られてありません。)に
 あったらしい。
  近くの神社に斉明天皇がいらしたという記録が残っている。これが、磐瀬行宮である。たぶん、ここが
 天智天皇の近江宮ではなかろうかと思われる。
  天智天皇の近江宮と大海人皇子(後の天武天皇)の隠った吉野宮の両点の基軸ができた。そうすると
 「壬申の乱」の舞台は、何処か?
 やっぱり、倭国であり、豊国北伐である。英彦山の南にある吉野宮から山を越えて、遠賀湾の出口付近の
 近江宮を襲撃した。

 

※ 2016年11月27日の『壬申の乱の舞台 糸田の「泌泉」は天智天皇の「漏刻」跡だった』の講演より

 天智天皇の長津宮(斉明天皇の磐瀬行宮)が、中間市の 御舘山 に、漏刻須弥山が造られた跡が糸田町の
 泌泉 (たぎり) に、近江大津宮の候補地は 大宮神社 です。

 ■ 天智天皇七年、草薙剣の盗難。九年、戸籍を造る

壬申の乱 最後の豊国北伐
天智天皇七年(六六八年)春正月
 丙戌朔戊子(三日)に、皇太子即
 天皇位す 或本に云はく、六年の歳次丁卯の
 三月に位に即きたまふ。
 是歳、沙門道行、草薙剣を盗みて、
 新羅に逃げ向く。而して中路に雨
 風にあひて、荒迷ひて帰る。
福岡県鞍手郡鞍手町中山八剱神社
 に同じ伝承があり、草薙の劒はこの
 宮に保存されていたとの言い伝えが
 ある。
  近くの古物神社にも草薙の劒が降っ
 て来たとの伝承がある。
天智天皇九年(六七〇年)春二月に、
 戸籍を造る。
庚午年籍唐の冊封下に入る

*.天智天皇七年に、新羅の僧と言われる沙門道行が、「 草薙の劔」を盗んで新羅に逃げようとしが、
 雨風にあって道に迷い戻ってきた。
  新羅の僧が、「草薙の劔」を盗み出そうとしたが失敗したと『日本書紀』は書いている。その
 「草薙の劔」は、どこにあったか?
  鞍手町の伝承、 八剱神社 に「この宮に保存されていた」という云い伝え残されている。また、
 近くの 古物神社 にも「草薙の剣が天から降ってきた」との伝承がある。だから、「ふるもん神社」と
 云う。
  鞍手町の三つの神社が最低限、「草薙の剣」の伝承を残している。

  天智九年の「戸籍を造る」とあるのは、天智四年の劉德高ら(一緒に来た禰軍)に日本は独立だ
 けれども形式だけでも唐の冊封下に入るように勧められた為に作られたのが、庚午年籍らしい。
  庚午年籍は、ほんの少ししか出てきていない。何故か? 冊封下に入るという事は、降伏の証として
 唐に差し出したからである。
  同じ事が『神功皇后紀』の中にあり、新羅国を退治した時に、そこの地図と宝物を取り上げてくる。
 地図を渡すという事は領土を渡すという事になる。戸籍を造って相手の国へ渡すという事が降伏であり、
 冊封下に入る事である。
  したがって、庚午年籍は、下書きの端しきれしか日本からは出てこない。これだけの大事業にも
 関わらず庚午年籍は現在まだ出てきていない。
  当時の日本国の全部の戸籍を造ったが、数十人しか出てこないのは、唐に差し出したからである。
  日本は独立国だと、この冊封下に入ることに異を唱えた者がいる。これが、「壬申の乱」の原因である。

  沙門道行を操ったのは誰だろう? 「草薙の劔」を奪おうとしたのは誰だろう? 
  たぶん、大海人皇子の策謀かも知れない。彼しかいない。

 

 ■ 天智天皇十年、吉野へ入る

壬申の乱 最後の豊国北伐
天智天皇十年(六七一年)九月に、
 寝疾不予したまふ。
  冬十月の甲子の朔壬午(十九日)
 に、東宮、天皇に見えて、吉野
 之りて、脩行仏道せむと請したま
 ふ。天皇許す。東宮即ち吉野に入
 りたまふ。大臣等侍へ送る。菟道
 に至りて還る。
  壬午(十九日)に、吉野宮に入
 りたまふ。時に左大臣蘇賀赤兄臣
 ・右大臣中臣金連、及び大納言蘇
 賀果安臣等送りたてまつる。菟道
 より還る。或の曰はく、「虎に翼
 を着けて放てり」といふ。是の夕
 に、嶋宮に御します。
  癸未(二十日)に、吉野に至り
 て居します。      
(天武天皇 摂政前紀)

*.天智天皇十年、東宮(大海人皇子)は、吉野へ入る。近江宮の大臣達が、菟道より還る。とあり、
 同じ内容の記事が、『天武紀』にもあり、大臣達の名も記されている。
  その後に有名な文句、「虎に翼を着けて放てり」とある。したがって、既に謀反「壬申の乱」の
 兆しがあったが、天智天皇は、それを止める事が出来なかった。
  大海人皇子は、天智天皇の近江宮を 19日に出発して、20日には吉野へ到着している。徒歩2日
 山国町吉野の若宮神社まで行った。

 

 ■ 天智天皇十年、歌謡一二六

壬申の乱 最後の豊国北伐
天智天皇十年(六七一年)の
 十二月の癸亥の朔乙丑(三日)に、
 天皇、近江宮に崩りましぬ。
  癸酉(十一日)に、新宮に殯す。
 時に、童謡して曰はく、
み吉野の 吉野の鮎 鮎こそは
島傍も良き え苦しゑ 水葱の下 
芹の下 吾は 苦しゑ
(み吉野の鮎こそは島のほとりに  
 居るのも良かろうが、私は、
 ああ苦しい。水葱の下、芹の下
 にいて苦しい。)

*.天智天皇十年十二月に亡くなった後の歌、これが、「壬申の乱」の予兆と言われる童謡(わざうた)です。

 

 ■ 『扶桑略記第五』には、天智天皇は殺されたと書かれている

壬申の乱 最後の豊国北伐
天武天皇元年(六七二年)
  六月~八月  壬申の乱
 秋七月庚寅朔壬子(二十三日)に、
 大友皇子、逃げて入らむ所無し。
 乃ち還りて山前に隠れて、自ら縊
 れぬ
※ 扶桑略記第五 天智天皇九年
 十二月三日。天皇崩。同十二月
五日。大友皇太子。即為 帝位 。
生年廿五。一云。天皇駕 馬。幸 
山階郷 。更無 還御 。永交 
山林 。不 知 崩所 。只以 履
沓落處 為 其山陵 。以往諸皇不 
知 因果 。恒事 煞害 。

*.天武天皇元年に壬申の乱が起きる。結果は、「近江朝」が敗れる。
  『扶桑略記第五』は、天智天皇九年十二月三日に天皇崩とあり、『日本書紀』と一年違う。大友皇太子は、
 25歳で帝位に就いた。
  次が、有名な沓だけ残して昇天した。遺骸のないまま山科陵が造られた。という記事の大もとです。
 注の最後(赤字)の記述は、沓の落ちていた所をもって山科陵とした。
  昔の諸々の皇子達は、その死の因果(原因結果)についてがわからない。但し、その陰には常に殺害の
 歴史があると書いている。

  という事は、「天智天皇は殺された」と書いてある。その沓塚が織幡神社にある。この織幡神社では、
 武内宿禰が沓だけ残して昇天したとの言い伝えになっているが、この扶桑略記の天智天皇の記事と酷似する。
  紀武内宿禰の墓は、高良大社の奥宮にある。武内宿禰は、ここ織幡神社の場所では死んでいない。
 この織幡神社の沓塚は、武内宿禰にすり替えられた天智天皇の沓が残されていた場所である。
 そのように考えるしかなかった。
  沓だけ残して体が無いという事は、現在においても入水自殺を意味する。ここ織幡神社が、その場所で
 あり、近江宮からは、そう遠くない距離のところである。

壬申の乱 最後の豊国北伐
「写真」
「写真」

織幡神社境内にある武内宿祢の沓塚

 

 ■ 『万葉集』一四八番歌

壬申の乱 最後の豊国北伐
※ 万葉集の証言
 一書に曰はく、近江天皇、聖躰不
豫御病急かなる時、大后の奉獻る
御歌一首
靑旗の 木旗の上を かよふとは
目には見れども 直に逢はぬかも
(萬葉集一四八)
 山科の青旗のような木幡(織幡神社)
の上を御霊は通っておられると目には
見えるけれど、
もはや直接には天皇に
お逢いできないことである。
(直接に逢ふとは、相觸れる肉體の
 ある人間として直接に相見る事で
 ある。)
(澤瀉久孝)

*.『萬葉集 一四八番歌』の証言
  この萬葉集の歌が天智天皇の「入水自殺」を暗示している。この歌を読んだ大后と言うのは、天智
 七年皇后となった倭姫王であり、これは、岩波書店の日本古典文学体系の萬葉集の頭中に書かれている。
  その倭姫王は、古人大兄皇子の娘とも書いている。古人大兄皇子は、吉野宮に隠居したがそこで
 暗殺された人物である。
  その娘が、天智天皇の皇后である。この后の詠んだ歌であり、因果は巡る。

 

 ■ 『万葉集』一五三番歌

壬申の乱 最後の豊国北伐
※ 大后=倭姫王天智七年皇后となる。
 天智の異母兄、古人大兄皇子の娘。生没年
 未詳。即位したという説がある。大海人皇
 子が、皇太子辞退の時、天智天皇に対して
 この皇后に天下のことをまかせるよう申し
 出たと書紀にあるのを有力な根拠とする。
 大后の御歌一首
鯨魚取り 淡海の海を 沖放けて
漕ぎ來る船 沖つ櫂 いたくな
撥ねそ 邊つ櫂 いたくな撥ねそ
若草の 夫の 思ふ鳥立つ
(萬葉集一五三)
(鯨魚取り)淡海の海の遠く沖辺を漕いで来
る船よ。沖の櫂もひどく水を撥ねないでおく
れ。岸辺の櫂もひどく水を撥ねないでおくれ。
(若草の)入水した我が夫のように思われる
鳥が、驚いて飛び立つかも知れないから。
(日本古典文学大系の解釈を一部  改作)

*.『萬葉集 一五三番歌』の「鯨取り 淡海の・・・」は、かつては「古遠賀湾」が存在したとする証拠の
 歌であり、尚、この歌も天智天皇が亡くなった後の歌とされる「大后(倭姫王)」の読んだ歌である。
   古遠賀湾 が、近つ淡海だという事が『萬葉集』、『古事記』、『日本書紀』を通じてこのように重大な
 歴史事実にぶち当たると誰が想像しましたか?
  天智天皇は病死ではなく、「壬申の乱」で大海人皇子(後の天武天皇)と直接争って敗れた結果、
 織幡神社の先の「鐘の岬」の所で飛び降り自殺をした。
  だから、この歌は、皇后がその場所にいる鳥をみて、ここにある夫天智天皇の魂と思ったからそこに船が
 漕いでくるのを見て、水を撥ね上げにでくれ。鳥を飛び立たせないでくれとの思いを詠った歌であろう。

 

 ■ 天武元年、飛鳥浄御原宮に遷都。八月、壬申の乱の重罪八人を極刑

壬申の乱 最後の豊国北伐
天武天皇元年
 是歳、宮室を岡本宮の南に営る。
 即冬に、遷りて居します。是を
 飛鳥浄御原宮と謂ふ。
※ 飛鳥浄御原宮を田川郡赤村大原の
 貴船神社の地に比定。
 八月庚申朔甲申、命高市皇子宣
近江群臣犯狀。則重罪八人坐極刑、
仍斬右大臣中臣連金於淺井田根。
是日、左大臣蘇我臣赤兄・大納言
巨勢臣比等及子孫、幷中臣連金之
蘇我臣果安之子、悉配流。以
餘悉赦之。

*.赤村字大原の貴船神社の地を 飛鳥浄御原宮 に比定している。
  壬申の乱の後、八月に右大臣中臣連金の一人が、斬首の極刑。左大臣蘇我臣赤兄、中臣連金之子、他は
 配流であり、軽い刑であった。
  ここで処刑されたのが、右大臣中臣連金となっているが、糸田町の 泌泉 の説明にある右大臣中臣金連
 同一人物と思われる。

 

 ■ 天武天皇八年、吉野宮に幸す

壬申の乱 最後の豊国北伐
天武天皇八年
五月庚辰朔甲申、幸 于吉野宮 。
乙酉、天皇、詔 皇后及草壁皇子
尊・大津皇子・高市皇子・河嶋皇
子・忍壁皇子・芝基皇子 曰「朕、 
今日與 汝等 倶盟 于庭 而千
歲之後欲 無 事、奈之何。」皇
子等共對曰、「理實灼然。」則草
壁皇子尊、先進盟曰、「天神地祗
及天皇、證也。吾兄弟長幼幷十餘
王、各出 于異腹 、然不 別  
同異 、倶隨 天皇勅 而相扶無  
忤。若自 今以後、不 如 此盟 
者、身命亡之子孫絶之。非 忘非 
失矣。」

 

 ■ 天武天皇八年、吉野宮に幸す。『萬葉集 二七番歌』

壬申の乱 最後の豊国北伐
天武天皇八年
五皇子、以 次相盟如 先。然後、天皇
曰、「朕男等各異腹而生、然今如 一母
同産 慈之。」則披 襟抱 其六皇子 。
因以盟曰「若違 茲盟 、忽亡 朕身 。
」皇后之盟、且如 天皇 。丙戌、車駕
還 宮。己丑、六皇子共拜 天皇於大殿
前 。

天皇、吉野宮に幸しし時の御製歌
(よ)き人の 良しと吉く見て 好しと
言ひし 芳野吉く見よ 良き人よく見
(淑人乃 良跡吉見而 好常言師
 芳野吉見与 良人四来三)
(萬葉集二七)

*.天武天皇八年に吉野宮で皇后(後の持統天皇、鸕野讚良)と六人の皇子と一緒に不戦の誓いを立てる。

 

 ■ 天武天皇十五年、病になる。朱鳥元年、崩御

壬申の乱 最後の豊国北伐
天武天皇十五年(六八六)六月の
 戊寅(十日)に、天皇の病を卜ふ
 に、草薙劒に祟れり
 即日に、尾張国の熱田社(鞍手町)
  に送り置く。
朱鳥元年(六八六)九月丙午(九日)
 に、天皇の病、遂に差えずして、
 正宮に崩りましぬ。

*.天武天皇十五年、天武天皇は病気になるが、「草薙劒に祟れり」と記事がある。何故、天武天皇が
 天皇家の三種の神器である草薙の劍に祟られなければいけないか?
 天武天皇が正当な天皇で無いと『日本書紀』は書いている。『日本書紀』は、すごい!!

 

※ 倭 (やまと)王朝の歴史とその遺構(平成29年3月19日、於 福岡県立大学)講演より

■ 壬申の乱後の処罰が、軽い

 近江朝(天智天皇)の群臣達の処罰が意外と軽い。重罪は、八名であった。その中で、斬られたのは
右大臣中臣連金ただ一人で、他は配流であった。
 ここでは、右大臣中臣連金となっているが、中臣金連だと思う。
 これが、大海人皇子(後の天武天皇)もしかして、筑紫君薩野馬の壬申の乱後の裁判である。近江朝廷の
人々も天智天皇の腹心を除いては、筑紫君薩野馬(大海人皇子、後の天武天皇)に従い始めていた。
 壬申の乱の勝利も天智天皇側で本気で抵抗した人達が少なかった。だから、処罰が軽い。

 

■ 壬申の乱後

 天武は赤村の飛鳥浄御原宮で統治した。その後、 大和王朝は東遷 する。
 平城京の時代は天武系すなわち筑紫君が天皇の時代であった。次の平安京の時代は天智系すなわち豊君
天皇の時代であったらしい。
 天皇家の菩提寺と言っていい京都の泉涌寺には、天武以後称徳女帝までの八代七人の天武系の天皇の
位牌が無いことはつとに有名である。

 そして、今上陛下のいらっしゃる皇居において国賓を招いて行われる宮中晩餐会などの主会場が、
豊明殿(ほうめいでん)である。その豊明殿の壁面を飾るのが、豊幡雲(とよはたぐも)の刺繍である。
 したがって、現在の天皇家は、平安時代以降、天智天皇を祖とする豊君である。天武系(筑紫系)では
無いという事が判るかと思います。