「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 神功天皇・征西(気比の宮~穴門豊浦宮)

 倭国(豊国)と東鯷国(丹波を中心とする銅鐸圏の二十余国の国)

倭国と東鯷国

倭国

・漢書地理志燕地

・後漢書倭傳

・三国志魏書東夷傳
 (魏志倭人伝)

三韓の南

銅矛文化圏

後漢鏡(=魏鏡)

卑弥呼(三世紀)200年

東鯷国

・漢書地理志呉地

・後漢書倭傳

・三国志に記載なし
 翰苑及び魏略逸文

三韓の東

銅鐸文化圏

三角縁神獣鏡(鯷呉合作鏡)

神功皇后(四世紀)320年

 

三世紀の倭国と東鯷国

地図「銅矛文化圏と銅鐸文化圏」
写真「銅鐸」
写真「銅矛」

銅矛文化圏
 (倭国)

銅鐸文化圏
(東鯷国)

 

  三角縁神獣鏡 は、「倭呉合作鏡」→「鯷呉合作鏡」

魏の年号にない景初四年銘三角縁神獣鏡があり、三角縁神獣鏡は魏鏡ではなく東鯷国の産物である。
     ↓   
三角縁神獣鏡は卑弥呼が、下賜された銅鏡ではない。

<大漢和辞典>

「画像」

*.大漢和辞典(日本)
 鯷人の住む海外の國。

<漢語大詞典>

「画像」

*.漢語大詞典(中国)
 會稽海外有東鯷人,分爲二十餘國・・・

 漢語大詞典は簡体字で書かれた中国の辞典であるが、日本の大漢和辞典が語彙の一部にしか取り上げていない東鯷人のことを
しっかり記述してあることが注目に値する。大漢和は、東鯷人を積極的に認めないのである。

<東鯷国の実像(抜粋)>  『東西五月行の成立』より

 東鯷国の出現(前漢代の東鯷国)

 『漢書』(紀元一〇〇年前後の成立)に日本列島上の種族と国が、二種記録してある。
  呉地「会稽海外、東鯷人有り。分かれて二十余国を為す。歳時を以って来り献見すと云う。」
  燕地「楽浪海中、倭人有り。分かれて百余国を為す。歳時を以って来り献見すと云う。」
 「東鯷人」は『史記』(紀元前九七年成立)に出現しない。
 「鯷」字が『史記』成立後から、『漢書』成立の頃に出現したことの先の考証は、倭国(倭人)の出現(紀元
前十四年の倭奴国の成立)と東鯷国(東鯷人)の出現とがほぼ同時期であることを裏付ける。
 東鯷国が丹波を中心とする銅鐸圏であり、倭国(倭奴国)が銅矛圏であるとするとき、両国が漢王朝に献見した
ことを証明する遺物がわが国に出土している。
 いわゆる漢式鏡である。漢式鏡は、前漢式鏡と後漢式鏡(「王莽」鏡を含む)に大別され、右記と関連する
前漢式鏡はほとんど大部分が北九州に分布し、中心は福岡県にある。倭国の中心と考えるべきであろう。

 後漢代の東鯷国 

 降って『後漢書』(紀元四四〇年前後の成立)「倭伝」に東鯷国の記事がある。
   会稽海外に、東鯷人 あり、分かれて二十余国を為す。また、夷州 および澶州 あり。伝え言う、「秦の始皇、
  方士徐福を遣わし、童男女数千人を将いて海に入り、蓬莱の神仙を求めしむれども得ず。徐福、誅を畏れて還らず。
  遂にこの州に止まる」と。世世相承け、数万家あり。人民時に会稽に至りて市す。会稽の東冶の県人、海に入りて
  行き風に遭いて流移し澶州に至る者あり。所在絶遠にして往来すべからず。

 前漢に出現した東鯷(とうし)国が後漢の時代にも依然として倭国と並存していたようだ。「夷(イ)州」が「倭(イ)国」
を指し、「丹(タン)波」を中心とする「東鯷国」を指すなら、『漢書』の記事が継承されていることになろう。
 「澶(タン)州」が秦時の徐福が蓬莱に出航したことは、『史記』に記された歴史事実であり、その到着先と思われる
「夷州および澶州」には徐福の渡来伝説の残る地が各所にある。
 吉野ヶ里、熊野、富士山を初めとして、確実に銅矛圏・銅鐸圏に渡来の跡が残されている。中国側が歴史事実と認めて
いるのに、日本側がいつまでも伝説として済ませるわけにはいかないだろう。

 後漢代の東鯷国(丹波王国と呉の往来)

 『後漢書』「倭伝」にはまた、「(東鯷国の)人民 時に会稽に至りて市す」の一文が記されている。
 人民は、勿論、徐福の一行の子孫である。中国側が会稽に来たと記してあるとき、日本側すなわち東鯷国から中国に
行ったという国内伝承はないのか。
 やはり丹波の地にあると思われる。浦嶼子伝承だ。浦島太郎のおとぎ話が有名だが、丹後国風土記、雄略紀二十二年
七月の条、万葉集と、正史や著名な古典に出て来る歴とした伝承である。
 出身地が、与謝の郡。日置の里(宮津市)、筒川(伊根町)、水の江(網野地方)と微妙な違いはあるが、すべて
与謝半島の地である。
 浦嶼子は日下部首らの先祖とあるから、日子坐王に限りなく近い存在である。実在性の高い人物が、はるかかなたの
海の向こうに渡ったようであるから、浦嶼子が呉地に行った東鯷人の一人と考えても大過なかろう。
 因みに、籠神社四代目の倭宿禰の像が境内にあるが、亀の背に座している。

  三国時代の東鯷国     

 『三国志』(紀元二九〇年代の成立か)の魏書・蜀書・呉書に「東鯷国」は直写されていないようだ。
 そこで、東鯷国の存在を認める人々の間にも、東鯷国は後漢代に衰退・消滅したのではないかとの推測がある。
この推測を否定し、三国時代にも東鯷国が依然倭国と並存していた可能性を示す文学作品が存在した。
 先の「鯷」字考で挙げた大漢和辞典の熟語の中に、「鯷海」の語があった。「鯷人の住む海外の国」すなわち
「東鯷国」を意味する。
 この「鯷海」の出典の一が、沈約の「従軍行」という五言詩である。次はその一節である。
  天に浮かび鯷海に出づ  馬を束ねて交河を渡る
 韻律の制約上、「東鯷の海」と詠っていないだけなのである。対句の他方が、西の内陸部の方を詠っていること
からも明らかだ。
 中国の兵は、東の海中の国や西の奥地にまで従軍したのである。
 沈約(四四一~五一三)は、梁の学者。『晋書』『宋書』『斉紀』『梁武紀』などを編集した。それまでの
「正史」である『史記』・『漢書』・『後漢書』・『三国志』を誰よりも熟知している存在だ。
 とすると、彼は、『漢書』・『後漢書』に記された「東鯷国」を知ってはいるが、そこに従軍した記録はないから、
「(将兵が)天に浮かび鯷海に出づ」の句はここからは得られない。沈約が知り得た「東鯷国派兵記事」といえば、
『三国志』の次の一節であろう。この記事を基に「従軍行」が詠まれたと推測される。
  将軍衛温・諸葛直を遣わし、甲士万人を率いて海に浮び、夷州 および亶州 を求む、亶州 は海中にあり
                              三国志呉書「孫権伝」黄竜二年(二三〇)

 この記事には、将軍と甲士万人が「海に浮かび」、『後漢書』に記された「澶(タン)州」=亶州すなわち「東鯷国」
に出かけたことが書かれているとしか考えようがない。
   

 晋の左思が作った「三都の賦」のうちに「魏都の賦」がある。魏都とは曹操の都した鄴を指す。
 西蜀公子と東呉王孫の自慢話を聞いていた魏国先生が感想を述べ、「魏都の賦」が始まる。魏都が蜀都・呉都に
比べて優れていることを述べ、武帝曹操の建国、都造り、宮殿の様子、城外の様子が綴られてゆく。
 そうして、武帝の征討の様子が述べられ、続いて武帝の招来した太平の世のありさまが述べられる。そこに次の
一節がある。
  時に東鯷 序に即き、西傾軌に順ふ。荊南憓を懐き、朔北韙を思ふ。綿綿たる迥塗、山に驟し水に驟す。
  賮贄を襁負し、訳を重ねて篚を貢す。髽首の豪、鐻耳の傑。其の荒服を服し、衽を魏闕に斂む。

【通釈】
 ここに東鯷や西戎の人々は、秩序正しくなり規範に従い、荊南の蛮族、朔北の狄人も帰順し、邪悪な心を懐かず、
綿綿と続く遥かな道を通り、幾度となく山を越え海を渡り、土地の産物を背に負い、通訳を重ねて箱に入れた礼物を
献上しに来ます。
 麻で髪を束ねたり、黄金作りの耳飾りをした酋長たちが、荒服をまとい魏の宮殿に敬意を表するためやって来ます。
                                (全釈漢文大系「文選」集英社に基づく)