「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 聖徳太子の正体 蘇我氏は「みやこ」にいた

※ 聖徳太子の正体 蘇我氏は「みやこ」にいた(平成29年6月3日 みやこ町歴史民俗博物館。4 日 嘉麻市NICO)の講演より

 ■ 天皇家と蘇我氏の歴史② 安閑天皇・宣化天皇

● 次の廣國押武金日天皇(安閑天皇 五三一 ~ 五三六)の世に、豊国の中央集権が確立するようである。

(安閑二年)五月丙午朔甲寅、置筑紫穗波屯倉・屯倉・豐國滕碕屯倉・桑原屯倉・肝等屯倉取音讀
大拔屯倉・我鹿屯倉我鹿、此云阿柯火國春日部屯倉・播磨國越部屯倉・牛鹿屯倉・備後國後城屯倉・
多禰屯倉・來履屯倉・葉稚屯倉・河音屯倉・婀娜國膽殖屯倉・膽年部屯倉・阿波國春日部屯倉・
紀國經湍屯倉經湍、此云俯世・河邊屯倉・丹波國蘇斯岐屯倉皆取音近江國葦浦屯倉・尾張國間敷屯倉・
入鹿屯倉・上毛野國緑野屯倉・駿河國稚贄屯倉。

 各地に屯倉(天皇家の直轄領)を置いた記事である。前半に、筑紫・豊国・火国に屯倉を置いたことが記され、後半に各地の屯倉が
記されるが、傍線部の近江・尾張・上毛野の各国も、実は現在の豊前にあったことを確認済みである。この記事が蘇我稲目の登場と深く
関わる。

古遠賀湾の事を「近淡海国」と言いましたように「近江國」も豊国内の昔の地名です。
    「尾張國」も直方から鞍手・香春付近にかけての昔の国名です。この国名が、国が広がる時に今は私達が知っている織田信長あたりの
    尾張国に移った。
    「上毛野國」も今でこそ群馬県に移ったが、現在でも豊前の所に上毛という地名がある。
    途中まだ、確定出来ませんが、すべて豊・筑・火の三国内にあった屯倉です。したがって、安閑天皇は、豊国にいた。
    「尾張國」の所に「入鹿屯倉」があったとある。入鹿といえば、蘇我入鹿でしょう。単純ですが、ここが、蘇我入鹿の出身地だと思って
    いる。ただの想像です。証拠などどこにもありません。

武小廣國押盾天皇(宣化天皇 五三六 ~ 五三九)紀に初めて、蘇我稲目が登場する。

元年春正月、遷都于檜隈廬入野、因爲宮號也。二月壬申朔、以大伴金村大連爲大連、物部麁鹿火大連
爲大連、並如故。又以蘇我稻目宿禰爲大臣、阿倍大麻呂臣爲大夫。

 稲目の代になると、過去に大臣を出していた葛城氏や平群氏は既に本宗家の滅亡により勢いをなくしており、蘇我氏は大伴金村大連と
物部麁鹿火大連にならぶ三大勢力の一角としていきなり大臣になっている。

夏五月辛丑朔、詔曰「食者天下之本也。黃金萬貫、不可療飢、白玉千箱、何能救冷。夫筑紫國者、
遐邇之所朝屆、去來之所關門、是以、海表之國、候海水以來賓、望天雲而奉貢。自胎中之帝洎于
朕身、收藏穀稼、蓄積儲粮、遙設凶年、厚饗良客。安國之方、更無過此。故、朕遣阿蘇仍君未詳也
加運河內國茨田郡屯倉之穀。蘇我大臣稻目宿禰、宜遣尾張連、運尾張國屯倉之穀。物部大連麁鹿火、
宜遣新家連、運新家屯倉之穀。阿倍臣、宜遣伊賀臣、運伊賀國屯倉之穀。修造官家那津之口。又其
筑紫肥豐三國屯倉、散在懸隔、運輸遙阻。儻如須要、難以備卒。亦宜課諸郡分移聚建那津之口、以
備非常、永爲民命。早下郡縣、令知朕心。」秋七月、物部麁鹿火大連、薨。是年也、太歲丙辰。

 宣化天皇の業績は「官家(みやけ)を那津(なのつ)の口(ほとり)に修造し」、安閑天皇が置いた各地の屯倉から「穀稼(もみいね)を収蔵し、儲粮
(まうけのかて)を蓄積した
」ことである。この時に、宣化は「蘇我大臣稲目宿禰は、尾張連を遣して、尾張國の屯倉の穀を運ばしむべし。」と
勅している。蘇我氏と尾張国の関係が深い。先の安閑紀においても、尾張国に入鹿屯倉が置かれていた。(稲目の玄孫に当たる蘇我入鹿は
ここの出ではないだろうか。)
 政治史の上では、「那津口の官家」がどこにあったかが重要である。この点については、通説も九州王朝論も博多湾岸(和名抄の筑前国
那珂郡中島郷)を採る。斉明七年三月条に娜大津を長津と改めたとあり、この長津も大方は博多大津とされている。だが、二十年に亘る
筑豊探査の結果、天智天皇の長津宮は中間駅西隣の御館山にあったことを突き止めた。
 時間を戻して、安閑天皇が豊国の中央集権を図ったのであれば、次の宣化天皇が筑紫に官家を置くわけがない。筑紫国の屯倉が遠いから
こそ、豊国の地に「穀稼(もみいね)を収蔵し」なくてはならないのである。「那津口の官家」は中間駅西隣の御館山付近にあったはずだ。
 宣化元年秋七月に、物部麁鹿火大連が薨じている。

宣化天皇の時に継体天皇を迎えた大伴金村大連、磐井の乱に活躍した物部麁鹿火大連がいる。ここに『日本書紀』では、いきなり
    初めて蘇我稻目宿禰と大臣と為すと出てくる。やっと蘇我氏が、いきなり出てきた。この年代以前には何をしていたのでしょうか?
    解らない一族です。稲目の代に大伴金村大連と物部麁鹿火大連にならぶ三大勢力の一角としていきなり大臣になっている。突然の
    出現で、びっくりですね。
    宣化天皇の父親の継体天皇が、樟葉宮(草場神社)から行橋方面の出身である。蘇我氏は、宣化天皇の時にいきなり登場するから
    豊国それも東の方の行橋に出現したという想像がついた。

宣化天皇の唯一の業績の「穀稼(もみいね)を収蔵し」 を行ったのは、インドネシア方面の火山が大爆発して、この時期は世界的に寒冷な
    気候だった。豊国、北九州全域が天候不順(寒冷)で稲が採れなくなった。豊国は近くに火山があり、より酷かったようです。 そこで
    筑紫国や火国にある天皇の直轄地から飢えている豊国の民の為に、「穀稼」を集めて、那津(なのつ)に蓄えた。
    これが、宣化天皇の大業績である。

  「那津口の官家」のあった所:中間市長津

「福岡県Flood Maps+中間市長津周辺」