「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 邪馬臺(やまと)國 = ( やまと)国 年表(豊国史)

[200年 卑弥呼共立 ~ 240年 魏使邪馬台国に至る]

※ 倭国大乱と卑弥呼
 (平成三〇年七月八日(日)、於 福岡県立大学大講義室)の講演より

■ 卑弥呼即位から遣魏使

卑弥呼即位から遣魏使
二〇〇(一九六~二二〇 建安年間)
  卑弥呼共立か。
(魏志韓伝・倭人伝、日本書紀 神功皇后紀)
二三〇 「将軍衛温・諸葛直を遣はし、甲士
  万人を率ゐて海に浮び、夷州(推定
  奴国
)および亶州(推定東鯷国)を求
  む」
(三国志呉書「孫権伝」黄竜二年)
二三三 倭の女王卑弥呼、使を遣はし来聘す。
(新羅本紀一七三)
二三八 景初二年六月、邪馬臺國の女王(に
  して神武の後継者たる)卑弥呼、魏の
  方郡
に大夫難升米等を遣はす。
(魏志)
二四〇 魏使邪馬台国に至る
  正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等
  奉詔書印綬詣倭國

*.240年 「詣倭國」の「」の訓読みは、「やまと」であり、魏使の来た国は、邪馬台(やまと)である。

※ 鷹羽の神々の盛衰に見る「王朝交替」
  第15回古代史講座 古代田川を解き明かす
 (令和2年2月23日(日)、主催:田川広域観光協会古代史研究会、於:OTOレインボ―ホ―ル)より

● 卑弥呼の即位年の西暦200年から西暦240年の遣魏使まで

・・・ 日本書紀の神功皇后紀に書かれた年(皇紀)を120年後に持って行く。神功皇后紀から日本
   書紀の時間軸、空間軸を定めた。そこから、日本書紀を前後に持って行って、読み通す試みをした。
    これが意外と成功した。神功皇后紀の年(皇紀)に書かれた物を120年後ろにスライドして、
   残る物は何か。これは、神功皇后記を読めば直ぐに解る。

    日本書紀の神功皇后紀の末尾に名前こそ書いていないが、卑弥呼と臺与の記録、つまり。魏志
   倭人伝が名前抜きで書かれている。
    そうすれば、神功皇后紀の年(皇紀)には、卑弥呼と臺与の記録が残ってしまう。だから、
   卑弥呼の即位した年が、西暦200年と解った。

    この西暦200年という卑弥呼の即位年は、他の海外の歴史書の記録と合わせても動かない。
   卑弥呼の即位した年は、西暦200年で良かった。

・・・ 卑弥呼の即位した年が、西暦200年と解ったから、三国志呉書「孫権伝」黄竜二年の記事が、
   西暦230年と解った。
    呉の兵士が、夷州は推定が狗奴国(菊池・山鹿辺り)で、亶州が推定東鯷国(若狭・丹波辺り)
   に来ている。
    三国志の魏志を読むだけでは、ダメです。呉書も読まないといけない。

・・・ 新羅本紀にある「倭の女王卑弥呼、使を遣はし来聘す」の記事は、元々は、西暦173年と書かれて
   いるが、良く調べると干支60年ズレていると考えて、西暦233年になる。
    卑弥呼は、帯方郡に遣いを送る前に、新羅の情報を探っている。このような事が、解ってくる。

・・・ 西暦238年は、魏の司馬懿(仲達)に公孫氏が滅ぼされた直後に卑弥呼が、魏の帯方郡にすかさず
   遣いを送った年である。
    この遣いは、帯方郡で司馬懿(仲達)と会っている。遣いは、洛陽の都まで送り届けられて、明帝
   (曹叡)と謁見した。

・・・ 西暦239年に明帝は、病気で亡くなったので、その喪が明けた次の皇帝の西暦240年にいよいよ
   魏使が倭(やまと)国(邪馬台国)へやって来る。
    倭人伝の原文が「詣倭國」とあり、倭圀の「」という字の訓読みが「やまと」である。音読みの
   「い」と読む「」を自分たち(倭人)は、「やまと」と読んだので、中国側の読み(仮名)で
   「邪馬臺(やまと)」と書いた。
    だから「邪馬臺」を「やまたい」と読んではいけない。「やまと」である。

 

 福永晋三先生のタイトル「邪馬臺国の位置と年表」の資料「 邪馬臺国の位置と年表改訂版 」の17ページに下記の記述が
 あります。

 卑弥呼の共立(二〇〇年) 

 神武の没年を確定し、祟神の没年一九八年が加わると、卑弥呼の一八四年即位説が消滅し、一九〇~二〇〇年の間の共立が
最有力になる。祟神没年が西暦一九八年であるなら、卑弥呼の共立は、一九九年という可能性が極めて大となる。
 神武即位一二一年から祟神崩御一九八年までの七十八年間は、魏志倭人伝の「其の国、本亦男子を以て王と為し、住まること
七、八十年、倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王と為す。
 名づけて 卑弥呼 と曰ふ。」
に矛盾しない。

 「男王在位七、八十年、その間(范曄後漢書に謂う桓・霊の間)に、倭国が乱れ、攻伐すること歴年、やっと一女子を
共立して王とした。」
と記す陳寿の筆法は、簡にして要を得ていたのである。もはや、男王では収まりがつかないから、
大物主神に仕える一女子を共立したようだ。
 当然のことながら、卑弥呼には「夫婿無し」の条件が課せられ、卑弥呼に子は無い。
 なお、日本書紀では神功皇后紀の割注に「倭女王」即ち卑弥呼の記事がある。神功皇后と卑弥呼を同一人物にしようとする
意図が見える。
 その時、神功の即位が西暦二〇〇年に当ることは決して偶然ではないようだ。なお、白村江の戦などにおいて、中国の暦に
一年のズレ問題がある。

※ 魏志倭人伝を解く! 宗像(神湊)が末盧国なら邪馬台国は田川だ
 (平成28年8月7日、於 田川市民会館講堂)の講演より

■ 230年(黄竜二年)の記事

 呉の国の将軍、衞溫諸葛直が、夷洲 狗奴国 )および亶洲 東鯷国 )へやって来た。秦の始皇帝の使えた方士、徐福
数千人の若い男女を連れて東方の島国(東方の彼方)へ不老不死の霊薬を求めてやって来た。
 その徐福は、実際には帰ってこなかったという記録が残されている。その徐福の伝説が、日本には富士山の麓とか吉野ヶ里の
近くとかにあちらこちらに残されている。
 中国においては、徐福は歴史事実であり、山東省の港から出かけて行ったその港の遺跡が出てきた。その徐福が行った先の
日本では、伝説(架空)になっているが、間違いなく徐福は来ている。
 だから、孫権は、呉の国は小さく兵士の数が足りないので、徐福の子孫を連れ戻してこいと命令を出した。それで、兵士
一万人を日本へ送ったという記録である。

 しかし、本国は、三国時代で戦乱に次ぐ戦乱で疲れ果てているが、亶洲(東鯷国)は、ものすごく平和であった。そこで
将軍と一緒にきた兵士一万のうち五千人が脱走した。
 だから、その将軍、衞溫と諸葛直は呉の国へ戻った時に、孫権に処刑される。
 その五千人の兵が脱走した230年の2、3年後にあの有名な 三角縁神獣鏡 が、突如として近畿の土地に出現した。三角縁
神獣鏡は、卑弥呼が魏から貰ってきた鏡ではなく、鏡の考古学では呉の職人が作った鏡と断定されている。

『三国志 呉書』
  黄竜二年
 二年春正月、魏作合肥新城。
詔、立都講祭酒、以教學諸子。
遣將軍衞溫諸葛直、將甲士萬人、
浮海、求夷洲及亶洲。亶洲、在
海中、長老傳言秦始皇帝遣方士
徐福將童男童女數千人入海、求
蓬萊神山及仙藥、止此洲、不還。
世相承有數萬家、其上人民時有
至會稽貨布。會稽東縣人海行、
亦有遭風流移至亶洲者。所在絕
遠、卒不可得至。但得夷洲數千
人還。
 三年春二月遣太常潘濬、率衆
五萬、討武陵蠻夷。衞溫諸葛
、皆以違詔無功、下獄、誅。