「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 箸墓を造る時の記述が、 御所ケ谷神籠石 を造った時の歌である。
大坂より上る場所(犀川大坂 → 御所ケ谷)に石を運ぶ歌で奈良県の地理では大坂より下る事になり歌と合わない。
※ 福永晋三先生のタイトル「邪馬臺国の位置と年表」の資料
「 邪馬臺国の位置と年表改訂版 」の12~13ページに
『「箸墓伝説」の 大坂山 から箸墓(御所ケ谷神籠石)まで登る。』の記述があります。以下、抜粋。
『日本書紀 崇神紀 十年』 歌謡一九
先ず多数の記紀歌謡の研究者が言うとおり近畿地方の歌であるなら、大坂山から箸墓までは「下る」ことになり、
「登る」地勢ではない。
次に、歌の内容と地の文の内容が全く逆だ。歌の真意はこうだ。
「大坂に下から上まで続いて登っていくたくさんの大きな岩は、大勢で引っ張り上げても、とても重くて大変だ。
これらを、もし手渡しで越して行くなら、越しきることができるだろうかなあ。」
カテムは、…しきることができるだろうの意。カモは高校古典で云う、詠嘆をこめた疑問を意味する終助詞。
…かなあと訳す。
ここでは、むしろ反実仮想を表す。結局、手渡しで越しきることができない現実を嘆いた歌である。それほど
「石群」は大きく重い。歌に対し、地の文は、人民が手渡ししているのである。石は小さく、古墳の葺石ならあり
得る。
歌中の「大坂」は福岡県田川郡の大坂であろう。ここから「継ぎ登る」先は、御所ヶ谷神籠石に他ならない。
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