「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 御所ヶ谷神籠石(景行社)= 景行天皇の宮(百磯城(ももしき)の大宮処)

 第12代 景行天皇:豊前国京都郡(福岡県行橋市)に行宮(かりみや) =「御所ヶ谷神籠石」を設ける。(紀)

御所ヶ谷神籠石( 百磯城の大宮処の跡)

御所ヶ谷神籠石=景行天皇の京(京都郡の起源)

霞立ち春日か霧れる 夏草か繁くなりぬる
百磯城の大宮処見れば淋しも (万葉集二九)
大坂に 継ぎ登れる 石群を
手遞傳に越さば 越しかてむかも (崇神紀)

*.『日本書紀 歌謡一九』 「 大坂 に継ぎ登れる・・・」

 

日本書紀 景行紀
 十二年の八月の乙未(きのとひつじ)の朔己酉(つちのととり)に、筑紫に(いでま)す。九月の甲子(きのえね)の朔戊辰(つちのえたつ)に、周芳の娑麼に到りたまふ。
 (中略)
 天皇、遂に筑紫に幸して、豐前國の長峽縣(ながをのあがた)に到りて、行宮(かりみや)()てて()します。故、其の處を號けて(みやこ)と曰ふ。
(景行天皇)十二年八月乙未朔己酉、幸筑紫。九月甲子朔戊辰、到周芳娑麼
 (中略)
 天皇遂幸筑紫、到豐前國長峽縣、興行宮而居、故號其處也。

*.何故か「京都郡」と書いて「みやこ郡」と読む。

 

 福永晋三先生のタイトル『「天満倭」考-「やまと」の源流』の  ページ15 」の「百磯城の大宮処見れば淋しも」の項に「山城宮」、「景行社」の記述があります。

 また、『倭国(現在の福岡県・佐賀県)には、御所ヶ谷 鹿毛馬  高良大社  女山   おつぼ山 等、神籠石の遺跡が集中している。』の記述もあります。 尚、こちらが  資料(平成16年如月) 」です。

 ※

 福永晋三先生のタイトル『東西五月行(統一倭国)の成立』の「 資料:東西五月行の成立 」の18ページ鯷倭(しわ)の興亡にある「神功天皇(神功皇后) の征西」の「松浦県の熊襲を滅ぼす」とある松浦については、

 2016年3月講演『初代神武天皇は田川で即位した』以降は、下記の内容に修正されています。
 前松浦は、神功皇后に滅ぼされた勝門姫の一族が、西に移動した後の松浦であった。田中和典さんの再発見と新発見です。田中さんの実家の糸島の宮地岳神社の祭神が勝門姫ということが判明したのです。
 仲哀天皇記は魏志倭人伝のマツロ国が最初から宗像の地である事を証明していました。肥前松浦をマツロ国に比定した説はすべて間違いとの結果が出ました。
 勝門姫は宗像の「 釣川 」のほとりで殺されたようです。私の説も肥前松浦ではなく、筑紫松浦の事件と修正します。

※ こちらは「神功天皇の征西」のページに続く、「  氣長足姫尊の豊国北伐 」のページです。

 「楽浪郡~倭奴国まで12,000里 ⇒ 帯方郡~邪馬台国まで12,000里に変わる」のページの『隋書』「俀国伝」に「東西五月行」の記述があります。

 『 万葉集 29番 』「近江の荒都に過りし時に、柿本朝臣人麻呂の作りし歌」は、『日本書紀』の神功皇后摂政元年二月三月の記事、神功皇后軍が忍熊王を滅ぼし入水自殺に追い込んだ戦記を念頭に置き、忍熊王の拠った百磯城の大宮処の跡を実際に訪れ、その荒廃を嘆き、併せて忍熊王の悲劇的な最期を傷んだ。
 そこは天満つ倭の東方、豊国の淡海に展開された事変であった。武力革命による王朝交替のもたらす悲劇を詠んだ、優れた叙事詩である。
   

 《反歌二首》
 人麻呂は反歌で、一転して、忍熊王の入水自殺を悼む。 思賀の辛碕と比良とは現在不明。豊津の海側に下りたか。
 神功紀にはこの事件が詳細に記されている。忍熊王の入水自殺の場所は、  齋多(せた) 
 <『 宇治の京 』3ページより引用>

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