「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 金村神社(大伴金村に因んで建立された神社)

  邪馬台国(豊国)は、三角縁神獣鏡圏の国から出た神功天皇に滅ぼされた。神功天皇は豊国を治め、紀武内宿祢
(藤大臣)
は筑紫国
 水沼に皇都 を建て、筑紫王朝( 紀氏王権 =倭の五王とその前後)を創始した。
 ここに「豊国王朝(兄国)」と「筑紫国王朝(弟国)」とが並立した。
 武の次の「」が筑紫君磐井に当たるようである。豊国の 継体天皇 と争って敗れ、王権は豊国に戻る。

継体(天皇)朝につづく
  オホド王(男大迹王)は 三国峠(火国) 出身?  現在の田川郡糸田町の金村神社に祀られている「大伴金村」に
迎えられ、豐国邪馬台の皇位に即く。
  すなわち、神武以来の豐国と火国を治める天皇になったのであろう。「神武の制をぐ」天皇の意か。

※ 壬申の乱の舞台  糸田の「泌泉」は天智天皇の「漏刻」跡だった
  (平成28年11月27日、於 糸田町文化会館)の講演より

  継体天皇の磐余玉穂宮跡を福智町の敷島交差点の「しきしま」の地名より 稲荷神社 に見出しました。
  尚、『日本書紀』に云う 三国 が、福岡県筑紫野市(筑前)・福岡県小郡市(筑後)・佐賀県基山町(肥前)間の
 三国峠か現在も捜索中です。

※ 壬申の乱の舞台  糸田の「泌泉」は天智天皇の「漏刻」跡だった
  (平成28年11月27日、於 糸田町文化会館)の講演より

泌泉の歴史(金村神社)

「説明(金村神社)」

 上図の『福岡県神社史』の「金村神社」の記事が、「 泌泉 (たぎり)」の説明の元となっている。最初に神體臺板
の刻文とあり、石か何かに刻んであった文字を明治時代に福岡県で綺麗に写された。その元から拓本が取られたそれが、
糸田町に残されている。
 この記事は、承安四年(1174年)に刻まれた文字である。『日本書紀』では「漏刻」の記事は、天智十年であるが、
何故、天智七年となっているのか?
 この神體臺板には、「承安四年七月に大地震が発生して、御神体が壊れた。その壊れた御神体によって泉が埋まり、
水が出なく
なった」と書いてある。
 この泉をも埋めてしまう御神体、水がでるのを塞ぐような御神体とは何か? 建てられていたと想像した占星台。
そのような石で出来た構造物があって、それが地震で崩れて泉を埋めた。

 占星台が建てられていたという想像が、ただの想像では無いことがお判り頂けますか。たぶん、崩れた石の名残りが
今の泌泉の側面の石垣に組まれているのではないかと期待している。あの石垣は、同じ大きさの石で組まれている。

 豊前誌(金村神社の項)

 糸田村にあり今昔説に大伴金村を祭る。此の村水なきを憂いて砿夫をして山を穿たしめ
自ら鉾にて山を刺し賜う
、それより水出ると言へり、金村は大臣平群真鳥、其の子鮪をも
誅し、仁賢天皇(四八八~四九八年)の御世より、欽明天皇(五三九~五七二年)の御世
まで
、六御世の朝臣に仕え奉り五御世の間大連と為られし人なり、如何なる所以ありて
此処に下られしにかあらん、其の子狭手彦は新羅国を誅へとの勅を蒙りて筑紫に下りし事
は御記に見えたり云々。
 

 この記事の「如何なる所以ありて此処に下られしにかあらん」は、どのような理由があってこの土地に下られた
のであろうか
と書かれているが、通説とは逆にこれは、元々、大伴金村は豊前のこの糸田の土地に居た人である。
 だから金村神社がここ糸田にある。その金村神社が遷されて奈良県の葛城にある。こちらの金村神社が本家である。
 子の大伴狭手彦が、弟日姫子(佐用姫)と別れる日、鏡を取りて嫗に與りき、嫗、悲みを含めて啼きつゝ栗川を
渡りしに、與らえし鏡の緒絶えて川に沈みき。因りて鏡の渡 と名づく。
次の条に弟日姫子が登りてひれを用いて
振り招きき。因りてひれ振の峯と名づく
『肥前國風土記』 にある。
 この別れの舞台も香春町の鏡山であり、遠賀湾が香春町の近くまで入っていて狭手彦はそこから出発した可能性が
浮かび上がってきた。ここの土地の伝承が、佐賀県の鏡山に移っていったと考えている。

■ 大友金村の業績 

 大伴金村は、実在の人物である。当然、豊前に居ました。上記の通説では、
越前国からとあるが、これが間違っている。
 継体天皇も近江の出身者である。この近江も古遠賀湾のある豊前である。
 『日本書紀 継体紀』に近江国に生まれると記してある。

 天皇父聞振媛顏容姝妙甚有媺色、自近江國高嶋郡三尾之別業、
遣使聘于三國坂中井中、此云那、納以爲妃、遂産天皇

(*1)令和元年年7月28日「白村江の戦いと壬申の乱」より以下に訂正

 仁賢天皇十一年(四九八年)、仁賢天皇の崩御後に大臣・平群真鳥、
(しび)父子を征討し、武烈天皇を即位させて自らは大連の地位に
ついた。
 武烈天皇八年(五〇六年)武烈天皇の崩御により皇統は途絶えたが、
応神天皇の玄孫とされる彦主人王の子を(*1) 越前国 英彦山周辺から
迎え継体天皇とし
、以後安閑・宣化・欽明の各天皇に仕えた。

「人物絵」

大伴金村 『前賢故実』より

 

 <所在地のGoogelマップ>