「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 聖徳太子の正体 蘇我氏は「みやこ」にいた
(平成29年6月3日 みやこ町歴史民俗博物館。4 日 嘉麻市NICO)の講演より
樟葉宮は福岡県行橋市南泉七‐一三‐一一に鎮座する豊日別宮( 草場神社 )と思われる。
社伝に、
「人皇三十代欽明天皇即位二年秋九月十八日神化老翁之相而現矣託于筑紫
日別大神神官大伴連牟彌奈里曰吾和是佐留多毘古乃大神奈利云々(下略)」
とある。
筑紫の日別大神の神官である大伴連牟彌奈里(大伴金村の孫)に「吾は佐留多毘古(猿田彦)乃大神なり」と
神託があった、というのである。
この宮の伝承から考えると、どうやら継体記に云う「近淡海国」は、応神記に云う古遠賀湾沿岸の近淡海国では
なく、行橋の入江沿岸の国を指すようだ。
倭王朝の朝臣の大伴金村に迎えられて、京築出身の継体は行橋の樟葉宮で即位したらしい。この時、
近淡海沿岸にすでに蘇我稲目が存在し、大伴金村と一緒に継体を支援したのではないかと推測される。
継体は遷宮を重ねて、遂に最晩年の五年間だけ倭の磐余玉穂宮で天下を治めた。
その磐余玉穂宮跡を探し当てたようだ。福智町金田四〇五番地「玉穂山」に鎮座する 稲荷神社 が
それらしい。本殿側から一の鳥居の向正面を見ると「倭三山(香春岳)」が遠望される。
※ 継体天皇は、驚くべき歴史がある。それは、年号(元号)を始められた事である。この事は、通説の日本史には
絶対に出てこない。
墨字で書かれているのが、鎌倉時代の「二中歴」です。継体天皇十六年に「善記」という年号から始まる。ここから
年号は、続いていきます。
皆さんは、年号の最初は、大宝律令(701年)の「大宝」だと思っていますね。 その「大宝」以前にこのように多くの
年号が続いている。その最初の年号が、継体天皇の「善記」である。
それを今までは、古田武彦氏達が九州年号とか、山川出版では私年号とか、別の方が古代逸年号(古代に失われた
年号)とか言うが、私は豊国の継体天皇が 始めた年号ということで、新しく豊国年号と付け直した。
この年号が、今回、蘇我氏を「みやこ」に見つけるきっかけとなった。継体、宣化、欽明、敏達、崇峻、推古と続いて
いく、その宣化の時に『日本書紀』に初めて蘇我稲目が登場する。 この年号があったお陰で解けてきた。
二中歴(九州年号)
豊国年号