「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 聖徳太子の正体 蘇我氏は「みやこ」にいた

※ 聖徳太子の正体 蘇我氏は「みやこ」にいた
 (平成29年6月3日 みやこ町歴史民俗博物館。4 日 嘉麻市NICO)の講演より

■ 天皇家と蘇我氏の歴史 ① 継体天皇

  紀氏王権 が潰え、継体朝が創始された。豊国が筑紫国・火国を従えて、天氏中心の世が復興されたらしい。
年号も継体朝(五〇七~五三一)から始まる。
 『二中歴』によれば、「善記(五二二~五二四)」が最初の年号である。善記元年は継体十三年に当たる。
また、継体天皇は不思議な帝である。古事記には近淡海国出身とあり、日本書紀には 大伴金村 に迎えられて
即位したとあるが、なかなか 倭 (やまと)に入れなかった天皇である。

 五〇七年二月、樟葉宮(くすばのみや)で即位。
 五一一年十月 筒城宮(つつきのみや)に遷す。
 五一八年三月 弟国宮(おとくにのみや)に遷す。
 五二六年九月 磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)に遷す。

 樟葉宮は福岡県行橋市南泉七‐一三‐一一に鎮座する豊日別宮( 草場神社 )と思われる。
 社伝に、

「人皇三十代欽明天皇即位二年秋九月十八日神化老翁之相而現矣託于筑紫
 日別大神神官大伴連牟彌奈里曰吾和是佐留多毘古乃大神奈利云々(下略)」

とある。
 筑紫の日別大神の神官である大伴連牟彌奈里(大伴金村の孫)に「吾は佐留多毘古(猿田彦)乃大神なり」と
神託があった、というのである。
 この宮の伝承から考えると、どうやら継体記に云う「近淡海国」は、応神記に云う古遠賀湾沿岸の近淡海国では
なく、行橋の入江沿岸の国を指すようだ。

豊日別宮(草場神社) ・・・官幣大社である 

「写真」

 倭王朝の朝臣の大伴金村に迎えられて、京築出身の継体は行橋の樟葉宮で即位したらしい。この時、
近淡海沿岸にすでに蘇我稲目が存在し、大伴金村と一緒に継体を支援したのではないかと推測される。
 継体は遷宮を重ねて、遂に最晩年の五年間だけ倭の磐余玉穂宮で天下を治めた。
 その磐余玉穂宮跡を探し当てたようだ。福智町金田四〇五番地「玉穂山」に鎮座する 稲荷神社 
それらしい。本殿側から一の鳥居の向正面を見ると「倭三山(香春岳)」が遠望される。

稲荷神社

「写真」

 継体天皇は、驚くべき歴史がある。それは、年号(元号)を始められた事である。この事は、通説の日本史には
 絶対に出てこない。
  墨字で書かれているのが、鎌倉時代の「二中歴」です。継体天皇十六年に「善記」という年号から始まる。ここから
 年号は、続いていきます。
  皆さんは、年号の最初は、大宝律令(701年)の「大宝」だと思っていますね。 その「大宝」以前にこのように多くの
 年号が続いている。その最初の年号が、継体天皇の「善記」である。
  それを今までは、古田武彦氏達が九州年号とか、山川出版では私年号とか、別の方が古代逸年号(古代に失われた
 年号)とか言うが、私は豊国の継体天皇が 始めた年号ということで、新しく豊国年号と付け直した。
  この年号が、今回、蘇我氏を「みやこ」に見つけるきっかけとなった。継体、宣化、欽明、敏達、崇峻、推古と続いて
  いく、その宣化の時に『日本書紀』に初めて蘇我稲目が登場する。 この年号があったお陰で解けてきた。

二中歴(九州年号)

「画像」
二中歴(九州年号)

 

豊国年号

西暦
五二二
五二六
五三一
五三六
五四一
五五二
五五四
五五八
五五九
五六四
五六五
五七〇
五七六
五八一
五八五
五八九
五九四
干支
壬寅
丙午
辛亥
丙辰
辛酉
壬申
甲戌
戊寅
己卯
甲申
乙酉
庚寅
丙申
辛丑
乙巳
己酉
甲寅
天皇代
継体一六
〃 二〇
〃 二五
宣化 一
欽明 二
〃 一三
〃 一五
〃 一九
〃 二〇
〃 二五
〃 二六
〃 三一
敏達 二
〃 一〇
〃 一四
崇峻 二
推古 二
年号
善記
正和
殷到
僧聴
明要
貴楽
法清
兄弟
蔵和
師安
知僧
金光
賢棲
鏡常
勝照
端政
吉貴
豊国年号(西暦対照表)