「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
上図の『福岡県神社史』の「 金村神社 」の記事が、「泌泉(たぎり)」
の説明の元となっている。
最初に神體臺板の刻文とあり、石か何かに刻んであった文字を明治時代
に福岡県で綺麗に写された。
その元から拓本が取られたそれが、糸田町に残されている。この記事は、
承安四年(1174年)に刻まれた文字である。
『日本書紀』では「漏刻」の記事は天智十年であるが、何故、天智七年
となっているのか?
この神體臺板には、「承安四年七月に大地震が発生して、御神体が
壊れた。その壊れた御神体によって泉が埋まり、水が出なくなった」と
書いてある。
この泉をも埋めてしまう御神体、水がでるのを塞ぐような御神体とは何か?と建てられていた物と想像したのが、占星台。そのような
石で出来た構造物があって、それが地震で崩れて泉を埋めた。
占星台が建てられていたという想像が、ただの想像では無いことがお判り頂けますか。たぶん、崩れた石の名残りが今の泌泉の側面の
石垣に組まれているのではないかと期待している。あの石垣は、同じ大きさの石で組まれている。
泌泉近くの田んぼの写真です。田んぼの中から水が
沸き出している。あちらこちらの田んぼで水が沸いて
いる。
泌泉を中心とした一帯が、元々「たぎり(沸水)」と
いう土地である。
この水が沸いている土地の泌泉の場所に漏刻と占星台
がセットで造られた。
町史の中に「たぎり」を「沸水」と書いた資料が一つ
ある。「たぎる」というのは、本来、「沸」の文字で
ある。ここの辺り一帯が沸(たぎ)っている。
沓形義勝様
「小さいとき泳いだたぎりの水は、きれいで冷たく、水量は豊かだった。溢れた水が堰を超えた。」
郷土史家の仲江健治様 「泌泉近くの車路、轡、見立などの字名は、古代官道の名残である。」
糸田町の南、田川市との境に官道が通っていた。泌泉の北に泌井、その西隣が轡という字名がある。泌泉の南に車路という字名が
ある。さらにその西に見立という字名がある。この字名が、古代官道の跡である。
では、何故、糸田町の南に官道が通っていたのか?といえば、ここに止事無きお方の宮か役所があったからである。何の意味も
無い所に律令時代に官道は、通らない。律令時代以前に重要な何かがあったからだ。
また、泌泉の北に鉾本がある。その鉾本で出土された鉾を運んできて泌泉にある小さな金村神社(金村権現)に納めていた。
豊前誌(金村神社の項)
糸田村にあり今昔説に大伴金村を祭る。此の村水なきを憂いて砿夫をして山を穿たしめ自ら
鉾にて山を刺し賜う、それより水出ると言へり、金村は大臣平群真鳥、其の子鮪をも誅し、
仁賢天皇(四八八~四九八年)の御世より、欽明天皇(五三九~五七二年)の御世まで、
六御世の朝臣に仕え奉り五御世の間大連と為られし人なり、如何なる所以ありて此処に下ら
れしにかあらん、其の 子狭手彦は新羅国を誅へとの勅を蒙りて筑紫に下りし事は御記に
見えたり云々。
この記事の「如何なる所以ありて此処に下られしにかあらん」は、どのような理由があってこの土地に下られたのであろうか
と書かれているが、通説とは逆にこれは、元々、大伴金村は豊前のこの糸田の土地に居た人である。
だから金村神社がここ糸田にある。その金村神社が遷されて奈良県の葛城にある。こちらの金村神社が本家である。
子の大伴狭手彦が、弟日姫子(佐用姫)と別れる日、鏡を取りて嫗に與りき、嫗、悲みを含めて
啼きつゝ栗川を渡りしに、與らえし鏡の緒絶えて川に沈みき。因りて鏡の渡 と名づく。
次の条に弟日姫子が登りてひれを用いて振り招きき。因りてひれ振の峯と名づく
と『肥前國風土記』 にある。
この別れの舞台も香春町の鏡山であり、遠賀湾が香春町の近くまで入っていて狭手彦はそこから出発した可能性が浮かび
上がってきた。ここの土地の伝承が、佐賀県の鏡山に移っていったと考えている。