「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 平塚川添遺跡

 新説 日本書紀(やまとのふみ) 第19回(9月29日)神功皇后③『洞の海から岡の海へ進軍 羽白熊鷲を甘木に
 破る
』の記事より引用

  羽白熊鷲の根拠地は朝倉市平塚にある弥生時代中期から古墳時代初頭の平塚川添遺跡一帯と思われる。
 このクニは神功に滅ぼされたようだ。

  熊鷲は、朝倉の野山を縦横無尽に駆け抜けた神功によって、ついに朝倉市荷原の 美奈宜(みなぎ)神社 
 追い詰められ討たれた。
  羽白熊鷲塚が「あまぎ水の文化村せせらぎ館」の下にあったそうだ。

 福永晋三先生のタイトル『東西五月行(統一倭国)の成立』の「 資料:東西五月行の成立 」の18ページ
 鯷倭(しわ)の興亡に「神功天皇(神功皇后) の征西」に「松浦鼎の熊襲を滅ぼす」の記述がありますが、

 2016年3月講演『初代神武天皇は田川で即位した』以降は、下記の内容に修正されています。
  肥前松浦は、神功皇后に滅ぼされた勝門姫の一族が、西に移動した後の松浦であった。田中和典さんの
 再発見と新発見です。
  田中さんの実家の糸島の宮地岳神社の祭神が勝門姫ということが判明したのです。
  仲哀天皇記は魏志倭人伝のマツロ国が最初から宗像の地である事を証明していました。肥前松浦をマツロ国に
  比定した説はすべて間違いとの結果が出ました。
   勝門姫は宗像の「 釣川 」のほとりで殺されたようです。私の説も肥前松浦ではなく、筑紫松浦の事件と
 修正します。

※ こちらが、「神功天皇の征西」のページに続く、穴門豊浦宮からの「  氣長足姫尊の豊国北伐 」のページです。

「楽浪郡~倭奴国まで12,000里 ⇒ 帯方郡~邪馬台国まで12,000里に変わる」のページの『隋書』「俀国伝」
 「東西五月行」の記述があります。

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