「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 若宮神社 = 斉明天皇の吉野宮であり、壬申の乱の時に大海人皇子が入った吉野宮


     
 

 















斉明天皇2年(656年・63歳) 吉野宮を作る。

写真「若宮八幡神社 拝殿」

*.巨石を用いた吉野宮(  若宮神社  )の他の写真です。

 「道の駅やまくに」の案内板

「「道の駅やまくに」の案内板」の地図

 若宮神社(吉野宮)の前を流れている川が、吉野川で
ある。ここへは、今のように堰が無ければ周防灘より
山国川を遡れば、船で来れる。
 倭歌に残されている船遊びが、この川は出来る。

■  壬申の乱 (最後の豊国北伐)   倭国(豊国)北伐考(平成28年7月31日、於 ももち文化センター)講演より

 吉野宮(大分県下毛郡山国町吉野の若宮神社)の発見 

 『日本書紀 應神紀
  十九年の冬十月の戊戌の朔に、吉野宮に幸す。時に國樔人來朝せり。 其の土(くに)は、
 より東南、山を隔てて、吉野河の上(ほとり)に居り。峯嶮(さが)しく谷深くして、道路
 狹く巘(さが)し。
  故に、京に遠からずと雖も、本より朝來すること希(まれ)なり。然れども此より後、
 屢(しばしば)參赴(まうき)て、以て土毛を獻る。

⇒ この『應神紀』より吉野の地は、京(都)が、豊前にあるならば、東南に山( 英彦山 )を超えた所にある。そこが、
 大分県側の山国町の吉野である。
  ここにある若宮神社が、齊明二年(六五六年)是歳条「又、吉野宮を作る」の記事の吉野宮であり、
 また、「壬申の乱」の時に大海人皇子が入った吉野宮である。

  若宮神社は、石段が山国川(吉野川)まで降りている。これが、斉明天皇の築いた吉野宮であれば、吉野川から直接、
 船で載りつけて宮まで登って行ける。
  これは、江戸時代や明治時代にここの村人が造れるような宮では無い。この拝殿の奥にもなおかつスクエアな石垣が
 いくつもある。それが、家来たちが一緒にやって来て寝泊した場所であろうと思われる。境内に入ると大きな石がゴロ
 ゴロしている。
  石段が、山国川から拝殿まで続くその両側に壊れた石跡がある。石垣があり、拝殿(本殿)があり、その拝殿の奥に
 石垣の基礎の跡がうかがえる。後の人々がそこを棚田にして使っていたようですが、棚田になる前が、何であったかは
 誰も調査をしていない。
  『日本書紀』の文献から斉明天皇の吉野宮がここであろうと見つけ出した。

  もう一つは、『萬葉集』や漢詩集である『懐風藻』の中にに幾つも「吉野宮」を詠った歌がある。その歌の条件
 (漢詩の条件)に全部合うのは、この場所である。奈良県の吉野(吉野川)では、船を浮かべられない。
  大宮人が、竜頭鷁首の船を並べて川遊びをしたという記録がある。奈良県では、無理である。何処からもその船が
 入れない。昔の山国川は、周防灘から登って来られる。豊前にあった都から海に出て山国川を逆登って来れば良い。
  現在は、途中に堰が造られているので無理だが、昔、堰が無い時には、登って来れたかを山国支所の土木課の方に
 確認したところ、登って来れたと言われた。

■ 壬申の乱(最後の豊国北伐)は、大海人皇子の吉野からの北伐。(天智十年、吉野宮へ入る。)
  天智天皇は、大海人皇子の軍に破れて淡海の京( 御舘山 )を逃れ、 織幡神社 の崎より入水自殺をした。大友皇子は、
 福智山の山麓の地、山前(福智町山崎)で首を吊って自決した。

 『日本書紀 天武紀上
   天皇、東宮に勅して鴻業を授く。乃ち辞讓びて曰はく、「臣が不幸き、元より多の病
 有り。何ぞ能社稷を保たむ。願はくは、陛下、天下を挙げて皇后に附せたまへ。仍、大友
 皇子を立てて、儲君としたまへ。臣は、今日出家して、陛下の為に、功徳を修はむ」と
 まうしたまふ。天皇、聴したまふ。
  即日に、出家して法服をきたまふ。因りて以て、私の兵器を収りて、悉に司に納めた
 まふ。壬午、吉野宮に入りたまふ。時に左大臣蘇賀赤兄臣・右大臣中臣金連及び大納言
 蘇賀果安臣等送りたてまつる。菟道より返る。
  或の曰はく、「虎に翼を着けて放てり 」といふ。是の夕に嶋宮に御します。
  癸未に、吉野に至りて居します

*.壬午(十九日)に近江宮(中間市の御舘山)を出発、癸未(二十日)には、吉野宮に入る。(徒歩で、2日の道程)

※ 『 日本書紀 天武天皇 8年(679年)』 と 『万葉集 27番歌』の 吉野宮 に関する記述です。

*.理実灼然いやちこ(いいちこ)は、大分県の方言で「いい(よい)」を意味する言葉。

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