「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 御舘山 = 天智天皇の「近江宮(磐瀬宮/長津宮か)」の地

 

  壬申の乱  (最後の豊国北伐)
 倭国(豊国)北伐考(平成28年3月21日、於 久留米大学)講演より

 大海人皇子の 吉野 (山国町吉野)からの北伐。天智天皇は、大海人皇子の軍に破れて淡海の京( 御舘山 )を逃れ、 織幡神社 の崎より入水自殺をした。
 大友皇子は、福智山の山麓の地、山前(福智町山崎)で首を吊って自決した。

 

 斉明天皇行宮の御舘山が、天智天皇の長津宮と思われる。下記の地図に中間駅の所に「 御舘 」の地名が見える。
 『日本書紀 天智天皇紀四年』の記事、白村江の戦いの敗戦後、唐の兵士を閲兵した菟道宮が、香春町の 阿曽隈社 である。また、天智天皇の近江大津宮の候補地は 大宮神社 漏刻須弥山 が造くられた跡を、糸田町の 沁泉(たぎり) に比定している。

『日本書紀』

 天智天皇六年(六六七年)春三月辛酉朔己卯(十九日)、 都を近江 に遷す。

 近江宮:中間駅西隣の御館山(今は削られて無い)にあったらしい。現地伝承有り。長津宮か。

1922年~1926年の中間駅付近

「地図」

1967年~1972年の中間駅付近

「地図」

『日本書紀 斉明紀 七年』

 三月の丙申の朔庚申に、御船、還りて娜大津(なのおおつ)に至る。磐瀬行宮 に居ます。天皇、此を改めて、名をば長津と曰ふ。   (中略)
 秋七月の甲午の朔丁巳に、天皇、朝倉宮に崩りましぬ。八月の甲子の朔に、皇太子、天皇の喪を奉徙りて、還りて磐瀬宮に至る。


 『七年の春正月』に「庚戌に、御船、伊予 熟田津(にきたつ)  石湯行宮(いはゆのかりみや) に泊つ。」の地名の記述があります。

 当時は海に面した土地であろう地図(Flood Mapsの海面上昇(7m)地図)と古遠賀湾(古代の遠賀川流域の推定図)は、  こちら 

<所在地のGoogelマップ> ・・・ 中間駅の東西に岩瀬、長津の地名がある