「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 妻垣(つまがき)神社 = 須賀の宮/一柱騰宮(阿斯毗苔徒鞅餓離能(アシヒトツアガリノ)宮)

*.一般には「ともがき」と読まれるが、「つまがき」神社。禰宜の苗字は、妻垣(ツマガキ)さん。

※  香春の神と天皇
(令和6年1月6日(土) 香春町郷土史会例会)

 『古事記』にある素戔烏尊の「出雲八重垣」と詠われた須賀の宮跡の地も香春町鏡山の鏡乃池の奥に見つけ出した。その小山の場所は、下から数えると丁度8段になっている。

)以下の比定地を訂正

素戔鳥尊の 豊国北伐   倭国(豊国)北伐考(平成28年3月21日、於 久留米大学)講演より

『古事記』の「須賀の宮(出雲八重垣(いづもやへがき))」の地=妻垣神社

① 素戔烏尊の豊国北伐
 須賀の宮
 故、是を以ちて其の速須佐之男の命、宮を造作(つく)るべき地を出雲の國に求めき。
 爾くして須賀の地に到り坐して、「吾、此の地に來て、我が御心、すがすがし」と詔りて、其の地に宮を作り坐しき。
 故、其の地は今に云う須賀なり。
()大神、初めて須賀の宮を作りし時、其の地より雲立ち(のぼ)りき。
 爾くして御歌を()みき。其の歌に曰く、

 八雲立つ 出雲八重垣 籠みに 
 八重作る その八重垣を
(古事記)

●『日本書紀 神代上 第八段 宝剣出現章』にも宮と倭歌の記述がある。

 然して後に、行きつつ婚せむ処を覓ぐ。遂に出雲の清地(すが)に到ります。清地、此をば素鵝(すが)と云ふ。乃ち言ひて曰はく、「吾が心清清(すがすが)し」とのたまふ。此今、此の地を呼びて(すが)と曰ふ。彼処に宮を建つ。或に云はく、時に(たけ)素戔鳴尊、歌して曰はく、
 や雲たつ 出雲八重垣 妻ごめに 八重垣作る その八重垣ゑ
乃ち相与に遘合して、(みこ)大己貴神を生む。
 因りて勅して曰はく、「吾が児の宮の首は、即ち脚摩乳(あしなづち)手摩乳(てなづち)なり」とのたまふ。故、号を二の神に賜ひて、稲田宮主神と曰ふ。

*.

 『古事記』『日本書紀』ともにこの歌謡が一番で、和歌の最初であると紀淑望(きのよしもち)『古今和歌集 真名序(まなじょ)の中で書いてある。

 然れども、神の世七代は、時質に人淳うして、情欲分かつことなく、和歌いまだ作らず。素戔烏尊の出雲の国に到るに逮びて、始めて三十一字の詠あり。今の反歌の作なり。その後天神の孫、海童の女といえども、和歌をもちて情を通ぜずといふことなし。

 須賀の宮 = 妻垣神社
 天之種子命と宇沙都比売との婚姻
の式場を垣で覆った故事から妻垣と
謂う
写真「妻垣神社」

 素戔鳥尊の矢俣遠呂智退治は、南の安心院(須賀の宮)を出て、北の 天香山 周辺(近くに 神鏡製造所跡「清祠殿」 がある)の八俣遠呂智一族(すなわち八幡神の長か?)を討伐した出来事である。
 ⇒  「出雲王朝の成立」 

 その出雲王朝は、饒速日尊(天照大神)により倒された。素戔鳥尊は、饒速日尊に田川市の 岩屋 の前で処刑された。

 矢俣遠呂智の尾から出てきた劔は、『古事記』では「都牟刈の太刀」。『日本書紀』では、「天叢雲劒」。これが天皇家の三種の神器の劔「草薙の劔であり、日本武尊の草薙の劔とも深く関わる 八剣神社 が筑豊地方に濃密に分布する。

 

 神武東征(118年、第二次東征)に関する  宇佐 の記述:『日本書紀』では、甲寅(114年)「行きて筑紫国の菟狹に至ります。」とある。

 第二次東征開始。「 邪馬臺国(邪馬台国)年表 」の118年 二月珍彦(うづひこ)椎根津彦(しひねつひこ)の案内で、菟狹に至り、一柱騰宮に入る。尚、一柱騰宮(古事記では、足一騰宮)は、妻垣山の頂上付近にある。

 以下、2021年12月3日(金)、『新説日本書紀』第9回講座より

 妻垣神社(上宮 比咩大神=瀬織津姫神)

妻垣神社

 女神の足跡の残る絶頂の石「足一騰宮」

足一騰宮
妻垣神社
妻垣神社(古図)

<都麻垣宮旧事記>(2021年12月3日 新説日本書紀 第9回講座より)
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