「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 邪馬臺(やまと)國 = ( やまと)国 年表(豊国史)

[118年 神武東征(第二次東征は、菟狹にまわり英彦山を越えて、倭奴国を攻める)]

※ 再発見 新発見 田川 川崎町は古代の京だった 神武・神功・應神の軌跡
 (令和元年十月二七日(日)、主催 豊の国古代史研究会 、於 川崎町勤労青少年ホーム )
 のパワーポイントに更新

神武天皇の第二次東征
一一八 春二月、第二次東征開始。
  「日を背にして戦う神策」を実行に
  移す。
   速吸門(速吸日女神社)に至り、
  珍彦を道案内とする。菟狹(安心院
  妻垣神社
)に至り、一柱騰宮に入る。
(日本書紀要約)
 数ヶ月、狹野
嶽(求菩提山)
に通い、「頭」
大天狗(豊前
坊)及び「八咫
烏」(求菩提山
八天狗)一族と
同盟を結ぶ。
 この間、吉野
の国樔(玖珠)

部らを巡撫。

安心院妻垣神社

 

神武天皇の第二次東征
菟田縣の血戦
一一八年 六月、「天皇獨り、皇子手研
   耳命と軍を帥ゐて進む。
   既にして皇師中洲に趣かんと欲す。」
  七月、頭八咫烏の案内で英彦山を下る。
  八月、菟田の穿邑に至る。菟田縣
   血戦に
   勝つ。

川崎町天然記念物
中元寺川・甌穴群

 

神武天皇の第二次東征
天香山を目指して進軍する
一一八年 九月、天香山(香春岳)攻略に
   かかる。
  十月、赤銅の八十梟帥を国見丘に破る。
(日本書紀)

 

神武天皇の第二次東征
嘉穂・鞍手の決戦
一一八十一月 立岩丘陵(飯塚市)に籠る
   磯城彦を攻めようとして、神武は川
   と海の混ざる広大な沼を徒歩で渡り、
   片島(飯塚市)に上陸、遂に「熊野
   の神邑
」を攻撃し、磯城彦を滅ぼす。
   「天磐盾(立岩神社)に登り」、
   東征成就を天祖に祈願する。
  十二月、長髄彦との最後の決戦に臨む。
   「十有二月の癸巳の朔丙申に、皇師
   遂に長髓彦を撃つ。」
   苦戦を強いられたようだが、辛勝し、
   終に長髓彦を殺す。
倭奴国滅亡
 長髄彦は年代が合わず、滅ぼされたのは、
天忍人命・天忍男命のようである。
 饒速日の別の末裔は神武に帰順したよう
でもある。

 

■ 『日本書紀 神武紀』の記述

 「甲寅(114年)に菟狹に至り、  一柱騰宮 に入る」とあり、「戊午年(118年)六月 ・・・ 遂に狭野を 越えて、
熊野の神邑に到り、且ち天磐盾に登る
」あるが、神武東征は、瀬戸内海を渡っていないから、「狭野を越えて」は、
菟狹から  英彦山 方面より山を越えて、倭奴国(香春三ノ岳=天香山)へ攻め入る。

 「熊野の神邑に到り、且ち天磐盾に登る」は、 『鞍手郡誌 射手引神社社伝』の 東征コース にある磯城彦を攻めた
場所、飯塚市の立岩神社( 東征コース:O )である。

 

■  第二次東征は、「日を背にして戦う神策」を実行 

 したがって、筑紫(博多湾)方面から速吸門(関門海峡)を通り、大迂回して菟狭に入り、 求菩堤山 の「頭八咫烏
と同盟を結び、その頭八咫烏の案内で東征を開始する。

 

■ 「狹野」の越えて = 狹野嶽が、 求菩堤山 

 「狹野」の越える前:「頭八咫烏」と同盟を結ぶ間に、『日本書紀 神武紀』の記述に「 吉野の国樔 (玖珠)部ら
を巡撫。
」とある。
 また、 その「吉野の国樔」の記述は『応神紀』にもあります。その『日本書紀』の「 吉野の国樔 」の記述です。