「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
[范曄後漢書李賢注には、随所に「謝承後漢書曰」が見られる]
※ 福永晋三先生のタイトル「邪馬壹國こそなかった -九州王朝論再構築に向けて-」の資料「 26邪馬壹國こそなかった 」
の2~3ページの記述です。
■ 謝承後漢書と范曄後漢書の関係
魏志倭人伝になく、范曄後漢書にある特別の記事として挙げられるのが「東鯷人」記事である。
会稽海外に、東鯷人あり、分かれて二十余国を為す。また、夷州および澶州あり。伝へ
言ふ、「秦の始皇、方士徐福を遣はし、童男女数千人を将ゐて海に入り、蓬莱の神仙を求め
しむれども得ず。
徐福、誅を畏れて還らず。遂にこの州に止まる」と。世世相承け、数万家あり。人民時に
会稽に至りて市す。会稽の東冶の県人、海に入りて行き風に遭ひて流移し澶州に至る者あり。
所在絶遠にして往来すべからず。
これは、あくまで「後漢時代の会稽」に伝わる記録であるが、これを最初に採録したのは誰であろうか。范曄よりは
謝承の方が該当するように思われる。
謝承は謝夫人の弟であるから、会稽山陰の人である。彼が仕えた孫権は、二〇〇年に孫策の後を継ぎ、五十年以上も
呉の当主として政権を掌握し、二五二年四月、七十一歳で帰らぬ人となった。
謝承は孫権より年少であるから、次の「三国志」中の記事の頃には生存していた可能性が高い。
将軍衛温・諸葛直を遣はし、甲士万人を率ゐて海に浮び、夷州および亶州を求む、亶州は
海中にあり。 「孫権伝」黄竜二年(二三〇)
「三国志」に「東鯷」の文字が無いことは周知の所だが、それが「三国志」のイデオロギーに拠るものであることは、
『翰苑』に残された「魏略逸文」から検証した。
親魏倭王の邪馬台国は記録しても、反魏倭王の 東鯷国 はその名も記録も採らなかった。
三国時代に「東鯷人」の国は存続していたどころか、倭国=邪馬台国と肩を並べる強国であり、呉と同盟して魏を
挟撃する懼れのある国であったようだ。
謝承は時代と出身地から考えて、邪馬台国と東鯷国を同時に知り得る立場にあった。右のように、記事を並べる時、
「夷州および澶州」・「夷州および亶州」を抽出すると、夷州が邪馬台国(あるいは 狗奴国 か)、澶州=亶州が
東鯷国とならざるを得なかった。
拙論「東西五月行の成立」で先に詳しく論じた。
右の記事の並列から知られるのは、『三国志』と『范曄後漢書』との成立順序のみを問題として、陳寿の表記が
仮に「邪馬壹國」であっても、その表記が「邪馬臺國」より先とする古田仮説がいかに詭弁を弄し、牽強付会で
固めたものであったかということであろう。
一方、「范曄後漢書」の大部分は、当然のことながら、「謝承後漢書」等の「三国志」以前の「旧・後漢書」群から
採られた古記録にも基づいて書かれていることが知られる。
以上から得られるのは、『范曄後漢書』の原史料と目される『謝承後漢書』の「邪馬臺國」表記のほうが、確実に
南宋本『三国志』より圧倒的に古く、陳寿の『三国志』原本よりも古いという事実であろう。
『翰苑』の項で再述する。
■ 謝承後漢書の行方
「范曄後漢書」の注は、唐の章懐太子賢(六五一~六八四)の命によるもので、儀鳳元年(六七六年)、学者や
太子左庶子の張大安などを招集し、范曄後漢書に注を入れ、その書を宮中の書庫に収めたとされている。
このいわゆる李賢注には、多数の「謝承書曰(謝承の後漢書に曰はく)」で始まる注が随所に見られる。その量から
推し量るに、唐代においてもなお「謝承の後漢書」は残っていたようである。
李賢注の成立より少し前の顕慶五年(六六〇)、張楚金が四六駢儷文における対句練習用の幼学書として『翰苑』を
書き上げている。
張楚金は高宗(在位六四九~六八三)に仕え、則天武后(在位六八四~七〇五)の時、配流先の嶺表で死亡している。
章懐太子賢は高宗・則天武后の第六子であり、「范曄後漢書李賢注」と『翰苑』本文はほぼ同時代の成立である。