「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


『邪馬壹國こそなかった -九州王朝論再構築にむけて-』

 陳寿の記録のとおりであれば、謝承の「後漢書」は、『三国志』を著した陳寿自身も、『新・
後漢書』を撰した范曄も、『三国志』に注した斐松之も、皆一様に「謝承の『後漢書』」を見て
いたことになる。

 事実、斐松之(三七二~四五一)は明らかに「謝承後漢書に曰く」として、『謝承後漢書』を
随所に引用しているし、范曄(三九七~四四六)は斐松之と同時代、同朝廷内(南朝劉宋)の人
である。
 これらのことから、魏志倭人伝は「王沈の魏書」と「魚豢の魏略」とを基に書かれたとする
見方に、「謝承の『後漢書』」を初めとする「旧・後漢書」群をも参照したとする見方を加え
なければならないという観点に至った。

 また、斐松之が「謝承後漢書」・「魏略」等を『三国志』に加注していることは厳然たる事実
だが、そこに「范曄後漢書」の東夷伝をも見た可能性を置くなら、「旧・後漢書」群を参照した
はずの「范曄後漢書」と併せる時、陳寿の「魏志倭人伝」に「邪馬壹國」の表記があったとする
古田仮説はおよそ成立しないのである。
 後段に詳述する。

謝承後漢書と范曄後漢書の関係

 魏志倭人伝になく、范曄後漢書にある特別の記事として挙げられるのが「東鯷人」記事である。

 会稽海外に、東鯷人あり、分かれて二十余国を為す。また、夷州および澶州あり。伝へ言ふ、
「秦の始皇、方士徐福を遣はし、童男女数千人を将ゐて海に入り、蓬莱の神仙を求めしむれども
得ず。徐福、誅を畏れて還らず。遂にこの州に止まる」と。世世相承け、数万家あり。人民時に
会稽に至りて市す。会稽の東冶の県人、海に入りて行き風に遭ひて流移し澶州に至る者あり。
所在絶遠にして往来すべからず。

 これは、あくまで「後漢時代の会稽」に伝わる記録であるが、これを最初に採録したのは誰であろうか。范曄よりは
謝承の方が該当するように思われる。

 謝承は謝夫人の弟であるから、会稽山陰の人である。彼が仕えた孫権は、二〇〇年に孫策の後を継ぎ、五十年以上も
呉の当主として政権を掌握し、二五二年四月、七十一歳で帰らぬ人となった。
 謝承は孫権より年少であるから、次の「三国志」中の記事の頃には生存していた可能性が高い。

 将軍衛温・諸葛直を遣はし、甲士万人を率ゐて海に浮び、夷州および亶州を求む、亶州は
海中にあり。
「孫権伝」黄竜二年(二三〇)

 「三国志」に「東鯷」の文字が無いことは周知の所だが、それが「三国志」のイデオロギーに拠るものであることは、
『翰苑』に残された「魏略逸文」から検証した。
 親魏倭王の邪馬台国は記録しても、反魏倭王の東鯷国はその名も記録も採らなかった。三国時代に「東鯷人」の国は
存続していたどころか、倭国=邪馬台国と肩を並べる強国であり、呉と同盟して魏を挟撃する懼れのある国であった
ようだ。

 謝承は時代と出身地から考えて、邪馬台国と東鯷国を同時に知り得る立場にあった。
 上のように、記事を並べる時、「夷州および澶州」・「夷州および亶州」を抽出すると、夷州が邪馬台国
(あるいは狗奴国か)、澶州=亶州が東鯷国とならざるを得なかった。
 拙論「東西五月行の成立」で先に詳しく論じた。

 上の記事の並列から知られるのは、『三国志』と『范曄後漢書』との成立順序のみを問題として、陳寿の表記が仮に
「邪馬壹國」であっても、その表記が「邪馬臺國」より先とする古田仮説がいかに詭弁を弄し、牽強付会で固めたもの
であったかということであろう。

 一方、「范曄後漢書」の大部分は、当然のことながら、「謝承後漢書」等の「三国志」以前の「旧・後漢書」群から
採られた古記録にも基づいて書かれていることが知られる。