「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 邪馬壹國こそなかった

[邪馬壹国こそなかった]

 福永晋三先生のタイトル「邪馬壹國こそなかった -九州王朝論再構築に向けて-」の資料「 26邪馬壹國こそなかった 
 の3ページ「謝承後漢書の行方」の中に下記の『隋書』と唐代について記述があります。

邪馬壹國こそなかった
『隋書』「経籍志」の「正史」中の「後漢書」
後漢書一百三十卷無帝紀,吳武陵太守謝承撰
後漢書八十五卷本一百二十二卷,晉祠部郎謝 沈撰.
後漢書九十七卷宋太子詹事范曄撰.
『隋書』俀國伝 顕慶元年(六五六)
『翰苑』倭国条 張楚金 顕慶五年(六六〇)
「范曄後漢書」李賢注 儀鳳元年(六七六年)

*.唐代は、一貫して「邪馬」の表記で、南宗本『三国志』に見られる「邪馬国」の
 表記は無い。

 

 『翰苑』本文成立の数年前、顕慶元年(六五六)に『隋書』が完成した。『隋書』は本紀五巻、志三〇巻、列伝
五〇巻から成る。特に「経籍志」が名高い。唐の魏徴(ぎちょう)と長孫無忌(ちょうそんむき)らが唐の太宗の勅を奉じて
勅撰を行う。
 編纂には、顔師古や孔穎達らが参加した。六三六年(貞観一〇年)には、魏徴によって、本紀五巻、列伝五〇巻が
完成。第三代の高宗に代替わりした後の六五六年(顕慶元年)に、長孫無忌によって志三〇巻が完成し、後から編入
が行われる。

 この『隋書』「経籍志」の「正史」中に、次の「後漢書」群が見える。
   東觀漢記一百四十三卷起光武記注至靈帝,長水校尉劉珍等.
   後漢書一百三十卷無帝紀,吳武陵太守謝承撰.
   後漢記六十五卷本一百卷,梁有,今殘缺.晉散騎常侍薛瑩撰.
   續漢書八十三卷晉祕書監司馬彪撰.
   後漢書十七卷本九十七卷,今殘缺.晉少府卿華?撰.
   後漢書八十五卷本一百二十二卷,晉祠部郎謝沈撰.
   後漢南記四十五本五十五卷,今殘缺.晉江州從事張瑩撰.
   後漢書九十五卷本一百卷,晉祕書監袁山松撰.
   後漢書九十七卷宋太子詹事范曄撰.
   後漢書一百二十五卷范曄本,梁?令劉昭注.
   後漢書音一卷後魏太常劉芳撰.
   范漢音訓三卷陳宗道先生臧競撰.
   范漢音三卷蕭該撰.後書讚論四卷范曄撰.

 上記に、「謝承後漢書」一百三十巻が見える時、唐の魏徴と長孫無忌も、張楚金も、李賢とその部下も、皆一様に
嘗ての陳寿や斐松之や范曄が見ていた「謝承後漢書」を同じく目にしていることになる。

 そうである時、唐代のほとんど同時代に共通の条件下で成立した次の三書の各表記をどう考えるべきであろうか。

 『隋書』俀國傳
  都於邪靡堆,則魏志所謂邪馬臺者也.

 『翰苑』倭國条
  憑山負海 鎭馬臺以建都

 『范曄後漢書』李賢注
  其大倭王居邪馬臺國.案今名邪摩惟,音之訛也.

 『翰苑』の「馬臺」は四六駢儷文の制限から「邪」字が敢えて省かれているので「邪馬臺」と同じと考えてよい。
三書に「邪馬臺」の表記が共通する。

 『隋書』の場合、「魏志所謂」としてあるから、唐代においては、「謝承後漢書」・「三国志斐松之注=魏志
(倭人伝)」・「隋書俀國傳」・「翰苑倭國条」・「范曄後漢書李賢注」に一貫して「邪馬臺」の表記があった
ことを意味し、南宋本『三国志』に見られる「邪馬國」表記は未だ出現していなかったことを意味する。

 三度言う、「邪馬壹國こそなかった」のである。