「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


『邪馬壹國こそなかった -九州王朝論再構築にむけて-』

 以上から得られるのは、『范曄後漢書』の原史料と目される『謝承後漢書』の「邪馬臺國」表記のほうが、確実に
南宋本『三国志』より圧倒的に古く、陳寿の『三国志』原本よりも古いという事実であろう。
 『翰苑』の項で再述する。

謝承後漢書の行方

 「范曄後漢書」の注は、唐の章懐太子賢(六五一~六八四)の命によるもので、儀鳳元年(六七六年)、学者や太子
左庶子の張大安などを招集し、范曄後漢書に注を入れ、その書を宮中の書庫に収めたとされている。
 このいわゆる李賢注には、多数の「謝承書曰(謝承の後漢書に曰はく)」で始まる注が随所に見られる。その量から
推し量るに、唐代においてもなお「謝承の後漢書」は残っていたようである。

 李賢注の成立より少し前の顕慶五年(六六〇)、張楚金が四六駢儷文における対句練習用の幼学書として『翰苑』を
書き上げている。
 張楚金は高宗(在位六四九~六八三)に仕え、則天武后(在位六八四~七〇五)の時、配流先の嶺表で死亡している。
章懐太子賢は高宗・則天武后の第六子であり、「范曄後漢書李賢注」と『翰苑』本文はほぼ同時代の成立である。

 『翰苑』本文成立の数年前、顕慶元年(六五六)に『隋書』が完成した。『隋書』は本紀五巻、志三〇巻、列伝五〇
巻から成る。
 特に、「経籍志」が名高い。唐の魏徴(ぎちょう)と長孫無忌(ちょうそんむき)らが唐の太宗の勅を奉じて勅撰を行う。
編纂には、顔師古や孔穎達らが参加した。
 六三六年(貞観一〇年)には、魏徴によって、本紀五巻、列伝五〇巻が完成。第三代の高宗に代替わりした後の六五
六年(顕慶元年)に、長孫無忌によって志三〇巻が完成し、後から編入が行われる。

 この『隋書』「経籍志」の「正史」中に、次の「後漢書」群が見える。

東觀漢記一百四十三卷起光武記注至靈帝,長水校尉劉珍等.
後漢書一百三十卷無帝紀,吳武陵太守謝承撰.
後漢記六十五卷本一百卷,梁有,今殘缺.晉散騎常侍薛瑩撰.
續漢書八十三卷晉祕書監司馬彪撰.
後漢書十七卷本九十七卷,今殘缺.晉少府卿華嶠撰.
後漢書八十五卷本一百二十二卷,晉祠部郎謝沈撰.
後漢南記四十五本五十五卷,今殘缺.晉江州從事張瑩撰.
後漢書九十五卷本一百卷,晉祕書監袁山松撰.
後漢書九十七卷宋太子詹事范曄撰.
後漢書一百二十五卷范曄本,梁剡令劉昭注.
後漢書音一卷後魏太常劉芳撰.
范漢音訓三卷陳宗道先生臧競撰.
范漢音三卷蕭該撰.後書讚論四卷范曄撰.

 上に、「謝承後漢書」一百三十巻が見える時、唐の魏徴と長孫無忌も、張楚金も、李賢とその部下も、皆一様に
嘗ての陳寿や斐松之や范曄が見ていた「謝承後漢書」を同じく目にしていることになる。

 そうである時、唐代のほとんど同時代に共通の条件下で成立した次の三書の各表記をどう考えるべきであろうか。

 『隋書』俀國傳
 都於邪靡堆,則魏志所謂邪馬臺者也.