「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 邪馬壹國こそなかった

[陳寿の見ていた「後漢書」= 謝承の「後漢書」]

 福永晋三先生のタイトル「邪馬壹國こそなかった -九州王朝論再構築に向けて-」の資料「 26邪馬壹國こそなかった 
 の1~2ページの記述です。

陳寿の見ていた後漢書
陳寿の『三国志』呉書、「呉主権謝夫人伝」に謝承
後漢書を著わしたと書いている
版本『三国志』呉書「呉主権謝夫人伝」(一部分)
陳寿(二三三~二九七)の『三国志』に注を付けた
斐松之(三七二~四五一)注に「謝承後漢書曰」と
書かれている
『三国志 呉書』 周瑜魯肅呂蒙傳第九

 上記の影印は『百納本二十四史』即ち宋紹煕刊本の一部

 

■ 陳寿の見ていた「後漢書」

 先に三国呉の人謝承の撰した『後漢書』を挙げてきたが、陳寿の『三国志』呉書にそのことが、実にあっさりと
記してあった。

 「呉主権謝夫人伝」である。その終わりに、謝承は、呉主孫権に寵愛された謝夫人の弟とある。謝夫人は会稽郡、
山陰の生まれである。父・謝煚は、漢の尚書郎や徐県の令であった。孫権の母の呉夫人は、孫権の妃として、
(会稽の名門と思われる)謝煚の娘である謝夫人を選んだ。

 (次の伝に出てくる徐夫人を娶ったのが西暦二〇〇年~二〇八年の事と断定できるので、謝夫人を妃としたのは
それ以前の事と推定できる。会稽の名門の娘を妃に迎える時期や孫権夫人伝として最初に立てられている点、さらに
孫権の年齢などを考え合わせると謝夫人を妃としたのは、一九〇年代後半と考えられる。)

 謝夫人は寵愛を受けたが、(二〇〇年~二〇八年の間に、)孫権が徐琨の娘である徐夫人を妃に迎える際、
謝夫人を徐夫人の下に置こうとした。
 だが謝夫人はこの扱いを受け容れることが出来ず、次第に寵愛を失い、早世した。

 その後十余年、謝夫人の弟の謝承が、五官中郎将に任じられ、やがて、長沙東部都尉・武陵太守と遷った。
 謝承は「後漢書」百余巻を著した。
 (原漢文、訳・解説・傍線は福永)

 陳寿の記録のとおりであれば、謝承の「後漢書」は、『三国志』を著した陳寿自身も『新・後漢書』を撰した
范曄も『三国志』に注した斐松之も、皆一様に「謝承の『後漢書』」を見ていたことになる。

 事実、斐松之(三七二~四五一)は明らかに「謝承後漢書に曰く」として、『謝承後漢書』を随所に引用して
いるし、范曄(三九七~四四六)は斐松之と同時代、同朝廷内(南朝劉宋)の人である。

 これらのことから、魏志倭人伝は「王沈の魏書」と「魚豢の魏略」とを基に書かれたとする見方に「謝承の
『後漢書』」を初めとする「旧・後漢書」群をも参照したとする見方を加えなければならないという観点に
至った。

 また、斐松之が「謝承後漢書」・「魏略」等を『三国志』に加注していることは厳然たる事実だが、そこに
「范曄後漢書」の東夷伝をも見た可能性を置くなら、「旧・後漢書」群を参照したはずの「范曄後漢書」と併せる
時、陳寿の「魏志倭人伝」に「邪馬壹國」の表記があったとする古田仮説はおよそ成立しないのである。
 後段に詳述する。

『三国志 呉書』 妃嬪傳第五
吳主權謝夫人、會稽山陰人也。父煚、
漢尚書郎、徐令。權母吳、爲權聘以
爲妃、愛幸有寵。後、權納姑孫徐氏、
欲令謝下之。謝、不肯、由是失志、
早卒。後十餘年、弟承拜五官郎中、
稍遷長沙東部都尉、武陵太守、撰
後漢書百餘卷
『三国志 呉書』 周瑜魯肅呂蒙傳第九
周瑜、字公瑾、廬江舒人也。從祖父
景、景子忠、皆爲漢太尉。
謝承後漢書曰。景字仲嚮、少以廉能
見稱、以明學察孝廉、辟公府。後爲
豫州刺史、辟汝南陳蕃爲別駕、