「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


『邪馬壹國こそなかった -九州王朝論再構築にむけて-』

邪馬壹國こそなかった  ―九州王朝論再構築に向けて― 

平成二六年七月二〇日(日)講演詳論  福永晋三

はじめに

 「神功紀を読む会」で、『翰苑』東夷伝のコピーを配布し、陳寿の『三国志』編纂以前に『旧・後漢書』の存在する
こと及び『翰苑』東夷伝注の頃、即ち唐代まで確実に『范曄後漢書』と共に存在したことも明示し、そこから、古田
仮説の「邪馬台国はなかった」に正面から反駁することになった。

 結果は、《南宋版『三国志』以降にしか「邪馬壱国」の表記は存在しない》という史料事実だった。のみならず、
富永長三氏の「中国史書の各東夷伝は本紀から順に全てを通読して初めて明らかになる仕組みになっている」との
提起と相俟って、驚くべき倭国史の事実が浮かび上がりつつある。
 その嚆矢が前号の「倭面上国と遠の朝廷」の論稿である。

 即ち、倭奴国の都が天神降臨後のある時期、韓半島内にあったとするもので、それを文献の一言半句に残された表記
から抽出されたのである。
 そのことがさらに、万葉集中のすべての「遠の朝廷」の意味を解明することに繋がったのであった。「遠の朝廷」の
うちの一つは明らかに、韓半島内の「朝廷」を指していた。

 天下の孤本『翰苑』東夷伝の有する実証力は、今後、倭国史の史実を大きく塗り替えていく可能性に満ちている。

陳寿の見ていた「後漢書」

 先に三国呉の人謝承の撰した『後漢書』を挙げてきたが、陳寿の『三国志』
呉書にそのことが、実にあっさりと記してあった。
 「呉主権謝夫人伝」である。その終わりに、謝承は、呉主孫権に寵愛された
謝夫人の弟とある。
 謝夫人は会稽郡、山陰の生まれである。父・謝煚は、漢の尚書郎や徐県の令
であった。孫権の母の呉夫人は、孫権の妃として、(会稽の名門と思われる)
謝煚の娘である謝夫人を選んだ。

 (次の伝に出てくる徐夫人を娶ったのが西暦二〇〇年~二〇八年の事と断定
できるので、謝夫人を妃としたのはそれ以前の事と推定できる。
 会稽の名門の娘を妃に迎える時期や、孫権夫人伝として最初に立てられて
いる点、さらに孫権の年齢などを考え合わせると、謝夫人を妃としたのは、
一九〇年代後半と考えられる。)

 謝夫人は寵愛を受けたが、(二〇〇年~二〇八年の間に、)孫権が徐琨の
娘である徐夫人を妃に迎える際、謝夫人を徐夫人の下に置こうとした。
 だが謝夫人はこの扱いを受け容れることが出来ず、次第に寵愛を失い、
早世した。

 その後十余年、謝夫人の弟の謝承が、五官中郎将に任じられ、やがて、長沙東部都尉・武陵太守と遷った。謝承は
「後漢書」百余巻を著した。
 (原漢文、訳・解説・傍線は福永)