「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 阿曽隈社(地元では上権様)= 菟道稚郎子(宇治天皇)⇒ 「宇治京」跡/天智天皇の菟道宮

[宇治の京の場所は、何処か]

 宇治の宮の場所は、田川道の香春町の場所のどこにあるのか?

■ 古代間道の田川道:太宰府から宇佐神宮へ至る道にある。宇治は、宇佐(菟狭=うさ)に至る道。

■ 宇治の宮(菟道宮)と大鷦鷯天皇の難波高津宮(行橋市の五社八幡神社)の距離関係については、『日本書紀』の
 記述の歩いて往復すると、鮮魚が腐る距離 = 20Km(徒歩約5時間前後)。

■ 『日本書紀 仁徳紀』 太子菟道稚郎子と大鷦鷯皇子が皇位を譲り合ったとされる逸話

 既にして宮室を菟道に興てて居し
ます。猶位を大鷦鷯尊に譲りますに
由りて、爰に皇位空しくして、既に
三載を経ぬ。
 時に海人有りて、鮮魚の荷苴を齎
ちて、菟道宮に献る。
太子、海人に令して曰はく、
「我、天皇に 非ず」
とのたまひて、乃ち返して難波に進
らしめたまふ。
 大鷦鷯尊、亦返して、菟道に献ら
しめたまふ。是に、海人の荷苴、往
還に鯘れぬ。更に返りて、他し鮮魚
を取りて献る。譲りたまふこと前の
日の如し。鮮魚亦鯘れぬ。
 海人、屢還るに苦みて、乃ち鮮魚
を棄てて哭く。故、諺に曰はく、
「海人なれや、己が物から泣く」
といふは、其れ是の縁なり。

⇒ 大鷦鷯天皇の難波高津宮(行橋市の 五社八幡神社 )から歩いて往復する間に魚が腐る距離の位置関係にある
 田川道で 味見峠 を越えた所、香春町内の何処か。

 

■ 『万葉集 七番』 『宇治の京』より引用

万葉集 七
明日香川原宮御宇天皇代
      天豊財重日足姫天皇
額田王歌  未詳
金野乃 美草苅葺
屋杼礼里之 兎道乃宮子能
借五百礒所念
右檢山上憶良大夫類聚歌林曰
一書戊申年幸比良宮大御歌
但紀曰 五年春正月己卯朔辛巳
天皇至自紀温湯 三月戊寅朔天皇
幸吉野宮而肆宴焉 庚辰日天皇
近江之平浦
秋の野の み草刈り葺き
宿れりし 宇治のみやこの
仮廬し思ほゆ

 *.左注の「戊申年」は、四〇八年(宇治天皇三年)

 ⇒ 上記の『万葉集 7番歌』の金野を「あきの」と読めない。「かねの(金野)」というのは、固有名詞であり、
  その場所に「宇治の京」があった。金辺川(きべがわ)の金辺は、「かねのあたり」と読める。
   また、宮原金山遺跡がある。金山より金辺川に向かって行く平地の場所が、金野である。その金野の場所に
  字名が、古宮(こみや)がある。

 

 『山城国風土記』逸文によると宇治の地名は、許乃国(このくに)と言われていた。

 『日本書紀 應神紀』より菟道稚郎子の母:宮主宅媛(みやぬしやかひめ、宮主矢河枝比売) は、木幡(こはた)村=
許乃国(このくに)の端の村
の出身である。

 

■ 『古事記』の応神天皇と菟道稚郎子の母の宮主宅媛が出会った場所が、木幡村

 一時天皇近つ淡海國を越え幸でましし
時、宇遲野の上に御立ちしたまひて、葛
野を望けて歌ひたまひしく、
  千葉の 葛野を見れば 百千足る 
  家庭も見ゆ 國の秀も見ゆ
とうたひたまひき。故、木幡村に到りま
しし時、麗美しき嬢子、その道衢に遇ひ
き。
 ここに天皇その嬢子に問ひて曰りたま
ひしく、「汝は誰が子ぞ。」とのりたま
へば、答へて白ししく、「丸邇の比布禮
能意富美の女、名は宮主矢河枝比賣ぞ。」
まをしき。天皇すなはちその嬢子に詔り
たまひしく、「吾明日還り幸でまさむ時、
汝が家に入りまさむ。」とのりたまひき。
故、矢河枝比賣、委曲にその父に語りき。
ここに父答へて曰ひけらく、「こは天皇
にますなり。恐し、我が子仕へ奉れ。」
と云ひて、その家を嚴餝りて候ひ待てば、
明日入りましき。故、大御饗を獻りし時、
その女矢河枝比賣命に、大御酒盞を取ら
しめて獻りき。
 ここに天皇、その大御酒盞を取らしめ
ながら御歌よみしたまひしく、
 この蟹や 何處の蟹 百傳ふ 角鹿
 の蟹 横去らふ 何處に到る 伊知
 遲島 美島に著き 鳰鳥の 潛き息
 づき しなだゆふ 佐佐那美路を
 すくすくと 我が行ませばや 木幡
 の道に 遭はしし嬢子 後姿は 小
 楯ろかも 齒並みは 椎菱如す 櫟
 井の 丸邇坂の土を 初土は 膚赤
 らけみ 底土は 丹黑き故 三つ栗
 の その中つ土を かぶつく 眞火
 には當てず 眉畫き 濃に畫き垂れ
  遇はしし女人 かもがと 我が見
 し子ら かくもがと 我が見し子に
  うたたけだに 對ひ居るかも い
 添い居るかも
とうたひたまひき。かく御合したまひて、
生みませる御子は、宇遲能和紀郎子なり。

 

■ 『山城國風土記 逸文』 『宇治の京』より引用

宇 治 (存疑)
 山城國風土記曰、謂 宇治 者
、輕島豐明宮御宇天皇之子、宇治
若郎子、造 桐原日桁宮 、以爲 
宮室 。因 御名 號 宇治 。
本名曰 許乃國 矣。

(詞林采葉抄第一)
 山城の國の風土記に曰はく、宇治
と謂ふは、輕島の豐明の宮に御宇し
めしし天皇のみ子、宇治若郎子、桐
原の日桁の宮を造りて、宮室と爲し
たまひき。御名に因って宇治と號く。
本の名は許乃(この)と曰ひき。
(岩波日本古典文学大系「風土記」)

⇒ その場所は、阿曽隈社(香春町字宮原古宮ヶ鼻)で、「宇治宮」跡地である。