「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 阿曽隈社(上権様)= 菟道稚郎子(宇治天皇)⇒ 「宇治京」跡/天智天皇の菟道宮

■ 宇治天皇の宇治宮 

<通説>

 大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)は、応神天皇の崩御の後、最も有力と目されていた皇位継承者の菟道稚郎子
(うじのわきいらつこ)皇子と互いに皇位を譲り合ったが、皇子の薨去(『日本書紀』は仁徳天皇に皇位を譲るために
自殺したと伝える)により即位したという。
 この間の3年は空位である。

 「人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて租税を免除し、その間は倹約のために宮殿の
屋根の茅さえ葺き替えなかった」と言う記紀の逸話 民のかまど  縦書き のページ)に見られるように、仁徳天皇の
治世は仁政として知られ、「仁徳」の漢風諡号もこれに由来する。

『日本書紀 仁徳紀』

既にして大宮(おほみや)菟道(うぢ)()てて()します。

  ⇒ 大宮を・・・興てて居します。」は、即位することを意味する。菟道(うぢ)の宮=宇治天皇の宮。

    3年間の空位となっているが、  菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)が、宇治天皇として即位していた。

    『 播磨国風土記 』には菟道稚郎子を指すとされる「宇治天皇のみ世」という表現が見られる。

『宇治の京』 ・・・ 香春町古宮ヶ鼻の阿曽隈社

「講演時のスライド(宇治の京)」

 

※ 「 民のかまど」の逸話に由来する業績は、空位とされる3年間在位した宇治天皇の業績であり、本当の「仁徳」と
 称される天皇で、通説の大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと) は「仁徳天皇」では無い。
 

※ 日本書紀の記述では、菟道稚郎子は太子であり、応神天皇の後継者として阿直伎(あちき) 王仁(わに) から
 諸典籍(経典)を習得している。 縦書き のページです。)
 (菟道稚郎子の 立太子 に関して、應神紀應神記の双方に大きな矛盾がある。)

※ 宇治の宮は、何処か?
   宇治天皇の母、宮主矢河枝比売が應神天皇に出遇ったのが「木幡村」。『山城国風土記逸文』に云う、「御名に
 因って宇治と號なづく。本の名は許乃國(このくに)と曰ひき。
」の「許乃國(このくに)」の「」あるいは「」の
 村の地、すなわち「 宇治 」の地である。
(縦書きのページは、 こちら です。)

  この「木幡(=許の国)」に「宇治の京」があり、宇治天皇すなわち太子菟道稚郎子の后であった髪長媛は、
 「木幡(村)」の地の女性という意味で應神紀の歌謡(歌い手は、大鷦鷯尊)で「 古破儾嬢女 (こはだおとめ)」と
 詠われている。

『山城國 風土記』 「宇治」

 山城國風土記に曰はく、宇治と謂ふは、輕島の豐明の宮に天の下知らしめ
しし天皇の子宇治の若郎子、桐原の日桁の宮を造りて宮室と爲し給ひき。御
名に因りて宇治と號ふ。本の名は(こ)の國といひき。

 

 福永晋三先生のタイトル「万葉集の軌跡-倭歌が解き明かす古代史 真実の人徳天皇-香具山に登りて望國したまふ
 天皇
」の資料「 宇治の京 村高完成版 」です。

 福永晋三先生のタイトル「万葉集の軌跡-倭歌が解き明かす古代史 鷦鷯(さざき)取らさね―蔽い隠された皇位継承戦争の
 悲劇
」の資料「 雀取らさね 」です。

 

■ 天智天皇の菟道宮 

 天智四年、白村江の戦いの後、唐の兵士がやって来て菟道で閲す。と記されているが、負けた側国の天皇が勝った側の
唐の兵士を閲兵する訳が無い。大喜名分逆転の記述である。
 菟道の宮は、香春町の香春三ノ岳の麓辺りになる字古宮ヶ鼻という所にある阿曽隈社である。ここに唐の兵士がやって
来たのだろう。
 香春町の中に唐子橋という橋があり、ここを唐の兵士が渡って菟道宮へ入ったと考えている。阿曽隈社のことをこの
土地の人は、「上権様」と言っている。止事無き方がいらっしゃったとことに間違いが無い。

天智四年、菟道に閲す

壬申の乱 最後の豊国北伐
天智二年(六六三年)秋八月壬午朔
 戊申(二十七日)白村江に敗戦。
天智四年(六六五年)秋九月庚午朔
 壬辰、唐国、朝散大夫沂州司馬上
 柱国劉徳高等を遣す。
 冬十月己亥朔己酉(十一日)、
 大きに菟道に閲す。
天智天皇六年(六六七年)春三月
 辛酉朔己卯(十九日)、都を近江
 に遷す。
近江宮 中間駅西隣の御館山(今は
 削られて無い。)にあったらしい。
 現地伝承有り。長津宮か。

 

宇治宮(上権様)=阿曽隈社(香春町古宮ヶ鼻)

「講演時のスライド(宇治宮(上権様))」

 

『日本書紀 天智紀 四年 』 ・・・ 「白村江の戦い」の敗戦の後

 九月の庚午の朔壬辰に、唐國、 朝散大夫沂州司馬上柱國劉德高等を遣す。
等といふは、右戎衞郎將  上柱國百濟禰軍・朝散大夫柱國郭務悰を謂ふ。凡て二百五十四人。
七月廿八日に對馬に至る。九月廿日に筑紫に至る。廿二日に表函を進る。

 冬十月の己亥の朔己酉に、大きに菟道に閲す。

 

 白村江線前夜 」のページへ

※ 天智天皇の 長津宮は、中間市の 御舘山 に、漏刻須弥山 が造られた跡を糸田町の 泌泉 (たぎり) に、近江大津宮
 候補地を 大宮神社 としています。

 

 <所在地のGoogelマップ>

 *.宇治宮跡地については、著書真実の仁徳天皇に記載されています。