「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 阿曽隈社(地元では上権様)= 菟道稚郎子(宇治天皇)⇒ 「宇治京」跡/天智天皇の菟道宮

[應神紀(日本書紀)の太子と應神記(古事記)の太子]

<以下、『宇治の京』より引用>

 「宇治天皇」と「宇治の京」を追究する過程で、菟道稚郎子の立太子に関して、應神紀と應神記の双方に大きな
矛盾があり、その裏に重大な歴史事実が隠されていることを終に見出した。

 先ずは應神紀の太子記事を並べてみる。

① 十五年の秋八月の壬戌の朔丁卯に、百濟の王、阿直伎を遣はし、良馬二匹を貢る。即ち輕の坂上の廐に養はしむ。
 因りて阿直岐を以て掌り飼はしむ。
  故、其の馬を養ひし處を號けて、廐坂と曰ふなり。阿直岐、亦能く經典を讀めり。即ち太子菟道稚郎子、師と
 したまふ。是に、天皇、阿直岐に問ひて曰く、「如し汝に勝れる博士、亦有りや」とのたまふ。
  對へて曰く、「 王仁 といふ者有り。是秀れたり」とまうす。時に上毛野君の祖荒田別・巫別を百濟に遣はして、
 仍りて王仁を徴さしむ。其れ阿直岐は、阿直岐史の始祖なり。

② 十六年の春二月に、王仁來る。則ち太子菟道稚郎子、師としたまふ。諸典籍を王仁に習ひたまふ。
 通達せざるは莫し。所謂王仁は、是書首等の始祖なり。

③ 二十八年の秋九月に、高麗の王、使を遣して朝貢す。因りて表上れり。其の表に曰く、「高麗の王、日本國に
 教ふ」といふ。
  時に太子菟道稚郎子、其の表を讀みて、怒りて、高麗の使を責むるに、表の状の禮無きことを以てして、
 則ち其の表を破る。

④ 卌年の春正月の辛丑の朔戊申に、天皇大山守命・大鷦鷯尊を召して、問ひて曰く、「汝等は子を愛するか」と
 のたまふ。
  對へて言はく、「甚だ愛するなり。亦問ひたまはく、「長と少とは孰か尤(うつく)しき」とのたまふ。
  大山守命、對へて言はく、「長子に逮かず」とまうしたまふ。是に、天皇、悦びたまはぬ色有り。
  時に大鷦鷯尊、預め天皇の色を察し、以て對へて言はく、「長は多に寒暑を經て、既に成人と爲りたり。更に
 悒(いきどほり)無し。唯少子は、未だ其の成不を知らず。是を以て、少子は甚だ憐れむ」とまうしたまふ。
  天皇、大きに悦びたまひて曰く、「汝が言、寔に朕が心に合へり」とのたまふ。
  是の時に、天皇常に菟道稚郎子を立てて、太子と爲たまはむ情有り。然るを二の皇子の意を知りたまはむと欲す。
 故、是の問を發したまへり。
  是を以て、大山守命の對言を悦びたまはず。甲子に、菟道稚郎子を立てて嗣と爲たまふ。即日に、大山守命に
 任じて、山川林野を掌らしめたまふ。大鷦鷯尊を以て、太子の輔として、國事を知らしめたまふ。

  内容から考えれば、明らかに④①②③の順であるべきであり、事実、古事記では、④に相当する記事が應神記の
 冒頭部の方にある。
  だが、「太子」の称号は用いられず、割注として「天皇是の問を發したまひし所以は、宇遅能和紀郎子に天の下
 治らさしめむ心有りつればなり。」が有り、詔の結びに「宇遅能和紀郎子は天津日嗣繼を知らしめせ。」とある。
 古事記應神記においても事実上、宇遅能和紀郎子(=菟道稚郎子)は「太子」であるのに、頑として宇遅能和紀
 郎子に「太子」の称号を用いない。
  代わって、應神記において「太子」の称号が現れるのは、應神天皇が「髪長比賣」を「太子大雀命(=大鷦鷯尊)」
に賜う場面の所だけである。

  天皇、日向國の諸縣君の女、名は髪長比賣、其の顔容麗美しと聞し看して、使ひたまはむとして喚上げたまひし時、
 其の太子大雀命、其の嬢子の難波津に泊てたるを見て、其の姿容の端正しきに感じて、即ち建内宿禰大臣に誂へて
 告りたまひけらく、「是の日向より喚上げたまひし髪長比賣は、天皇の大御所に請ひ白して、吾に賜はしめよ。」と
 のりたまひき。
  爾に建内宿禰大臣、大命を請へば、天皇即ち髪長比賣を其の御子に賜ひき。賜ひし状は、天皇豊明聞し看しし日に、
 髪長比賣に大御酒の柏を握らしめて、其の太子に賜ひき。…中略… 故、其の嬢子を賜はりて後、太子歌ひて曰はく、
  …後略…。

  應神記中、この三箇所にのみ「太子」の称号が使われていて、すべて「大雀命」を指している。必然的に、
 日本書紀應神紀中の①②の記事と同様の記事が古事記應神記にあるが、「太子菟道稚郎子が阿直岐や王仁を師と
 した」記録がない。明らかに消されている。
  應神天皇が「髪長媛」を「大鷦鷯尊」に賜う記事が、日本書紀應神紀にもある。

Ⓧ 十三年の春三月に、天皇、專使を遣はして、以て髪長媛を徴さしむ。秋九月の中に、髪長媛、日向より至れり。
 便ち桑津邑に安置らしむ。
  爰に皇子大鷦鷯尊、髪長媛を見るに及びて、其の形の美麗に感でて、常に戀ぶ情有り。是に、天皇、大鷦鷯尊
 髪長媛に感づるを知しめして配せむと欲す。是を以て、天皇、後宮に宴きこしめす日に、始めて髪長媛を喚して、
 因りて以て宴の席に坐らしむ。時に大鷦鷯尊を撝して、以て髪長媛を指したまひて、乃ち歌ひて曰はく、
   いざ吾君 野に蒜摘みに 蒜摘みに 我が行く道に 香ぐはし 花橘 下枝らは 人皆取り 
   上枝は 鳥居枯らし 三栗の 中枝の ふほごもり 赤れる嬢子 いざさかばえな

  是に、大鷦鷯尊、御歌を蒙りて、便ち髪長媛を賜ふこと得ることを知りて、大きに悦びて、報歌たてまつりて
 曰はく、
   水渟る 依網池に 蓴繰り 延へけく知らに 堰杙築く 川俣江の 菱莖の さしけく知らに 
   吾が心し いや愚にして

Ⓨ 大鷦鷯尊 髪長媛と既に得交まぐはひすること慇懃なり。獨り髪長媛に對ひて歌ひて曰はく、  
   道の後 古波儾嬢女を 神の如 聞えしかど 相枕枕く
  又歌ひて曰はく、  
   道の後 古波儾嬢女 争はず 寝しくをしぞ 愛しみ思ふ

  應神紀では右のように「皇子大鷦鷯尊」となっていて、「太子菟道稚郎子」とは大義名分を厳然と画している。
  つまり、記事の時系列は古事記の方が至極順当であり、「太子」「皇子」の別は日本書紀の方が厳密で首尾一貫
 しているのである。
  しばらく、古事記の時系列に従って、日本書紀應神紀の右の記事を整理し直してみる。

④ 應神天皇、菟道稚郎子を太子に立て、大鷦鷯尊を太子の輔佐とする。

ⓍⓎ 應神天皇、髪長媛を皇子大鷦鷯尊に賜う。

① 太子菟道稚郎子、百濟の阿直岐を師とする。

② 太子菟道稚郎子、百濟の王仁を師とし、諸典籍を王仁に習う。

③ 太子菟道稚郎子、高麗の表の無礼を怒り、その表を破り捨てる。

  上記のようにまとめ直すと、菟道稚郎子がいかに應神天皇に愛され、太子としていかに活躍したかが
 知られる。
 この時、ⓍⓎの髪長媛関係の記事がはなはだ不自然で怪しい。逆に、古事記ではこの部分にのみ「太子大雀命」が
 出現したし、他の記事でも大雀命が活躍し、宇遅能和紀郎子は脇に回される。
  特に、古事記の、日本書紀①②の記事に相当する部分では、太子の称号も菟道稚郎子の名も事跡もすべて
 消されていて、日本書紀③の記事は相当する記事自体さえ古事記にはない始末である。
  以上のように考察すれば、右の記事群において、記紀の改竄は、ある一点に集中していたことが自ずと分かる。
  應神天皇、髪長媛を太子菟道稚郎子に賜う。という一点である。
  推測するに、髪長媛は、初め、太子菟道稚郎子の妃に迎えられた可能性が高い。その絶世の美女に皇子大鷦鷯尊が
 横恋慕し、太子菟道稚郎子を嫉妬した。やがて、太子は即位して宇治天皇となり、髪長媛は皇后となる。
  三年後に宇治天皇は崩御し、髪長媛は不本意ながら大鷦鷯天皇の妃となったようだ。
  仁徳紀に曰う。

  二年の春三月の辛未の朔戊寅に、磐之媛命を立てて皇后と爲。皇后、大兄去來穗別天皇・住吉仲皇子・瑞齒別天皇・
 雄朝津間稚子宿禰天皇を生れませり。又妃日向髮長媛、大草香皇子・幡梭皇女を生めり。

  あれほど望んで、父應神天皇から賜った髪長媛が、大鷦鷯の即位後に皇后ではなく、「又の妃」の位に置かれたのが
 不審である。

  したがって、萬葉集巻二の 冒頭部の四首 (八五~八八)は、大鷦鷯の乱とも云うべき歴史事実を背景にして、
 宇治天皇の崩御後に残された髪長媛皇后 に仮託して読まれた連作である。