「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
阿曽隈社(地元では上権様)= 菟道稚郎子(宇治天皇)⇒ 「宇治京」跡/天智天皇の菟道宮
[ 王仁」について、『古事記』では、和邇吉師 ]
■ 『日本書紀 応神紀』の菟道稚郎子が、王仁(わに)を師とした記事と
『日本書紀 仁徳紀』の新しい宮の造営の記事
倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった「宇治の宮」から新しい宮を造る事になり、新しく
完成した「比良宮」の造営を祝った歌が、『百人一首』の序歌 王仁(わに)の歌である。
百人一首の競技の初めに序歌として朗詠される歌。
■ 『百人一首』の序歌、『古今和歌集仮音名序』に大鷦鷯尊の そえ歌 とある
【新解釈一 : 朝廷の御初めを祝った歌】
宇治天皇の新宮殿である岡(遠賀)の海の難波津にある比良の宮に咲き誇っているよ、梅の花が。ちょうど、
冬、木の芽が盛り上がるように、宇治帝が三年間、人民の課役を科せられずに、雨漏りのする粗末な宇治の京の
仮廬のような宮殿で過ごされ、その間に人民は富み、やがて炊煙が盛んに立つようになった。
天皇は人民と共に富み栄え、新宮殿の成った今を聖帝の御世の春(勢いの盛んな時期)と讃えるかのように、
咲き誇っているよ、梅の花が。
【新解釈二 : 大鷦鷯天皇の政治を風刺し申し上げた歌】
大鷦鷯天皇の遠つ淡海にある
難波高津の宮 には咲き誇っていますか、梅の花が。いや、決して咲きますまい。
冬、木の芽が盛り上がるように、かの宇治帝が三年間、人民の課役を科せられずに、雨漏りのする粗末な宇治の
京の仮廬のような宮殿で過ごされ、その間に人民は富み、やがて炊煙が盛んに立つようになった、あの聖帝の
御世を継承できますか。
大鷦鷯天皇の御世となった今を春と讃えて咲き誇っていますか、梅の花は。人民と共に富み栄えることが
なければ、梅の花は決して咲きますまい。
「難波津の歌」が、真に「王仁」の作であるなら、宇治天皇(=真実の仁徳天皇)の御世を祝ったのが本来の真意
であり、宇治天皇の非業の死後に「難波津の什物」を大鷦鷯天皇に献上せざるを得なくなった時に、難波津の歌は
一転して「添へ歌」となり、「政治を風刺し申し上げた歌」と化した。
紀貫之はその真意を知っていたようだが、日本書紀成立後の平安朝においては「大鷦鷯天皇=仁徳天皇」とされた
から、早くに「そへ歌」の真意が忘れ去られたようだ。
その結果、「なにはづのうたは、みかどのおほむはじめなり。」の方だけが伝えられ今日に至ったようである。
しかし、人々は宇治天皇の御世こそ忘れ去ったが、聖帝記事を歴史事実として敬慕し続け、王仁の「難波津の歌」
自身も後世に多大の影響を及ぼしたのである。 <『宇治の京』より>
■ 『万葉集七番歌』は、宇治天皇が、新しい宮の完成後に「宇治の宮」を懐かしく思って詠われた歌である
*.左注の「戊申年」は、四〇八年(宇治天皇三年)また、比良宮(ひらのみや)が、記紀に近江(あふみ)の
平浦(ひらのうら)と記述がある。
宇治天皇の新しい宮(比良宮)も 難波津(なにわづ)にあった。大鷦鷯天皇の難波高津宮も難波津(なにわづ)
でどちらの宮も難波津と言える。
■ 『百人一首 一番』