「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
中津原 =「豊前国ナカ津」の地 =「比良の宮」
※ 壬申の乱の舞台 糸田の「泌泉」は天智天皇の「漏刻」跡だった
(平成28年11月27日、於 糸田町文化会館)の講演より
宇治天皇の新宮殿 「比良の宮」の新しい候補地、 白鬚神社 が現れた。
※ 福永晋三先生のタイトル「万葉集の軌跡-倭歌が解き明かす古代史 真実の人徳天皇-香具山に登りて望國したまふ
天皇」の資料「 宇治の京 村高完成版 」の26ページに『香春町に「豊前国ナカ津」の地が存在する。
あの勾金荘に 「中津原」の地がある。』の記述があります。 <以下、『宇治の京』より引用>
そこは、八十氏河の一、御祓(みそぎ)川のほとりであり、ここに「比良の宮」が築かれ、後世、「藤原宮」と呼ばれた
可能性が窺われる。
この「比良の宮」とはどこか。記紀は「比良の宮」の名さえも黙秘して語らぬ。僅かに、「山上憶良大夫の類聚歌林
中の『一書』」にあると、万葉集の左注がその名を唯一留めた。
『万葉集7番歌』
■ 万葉集 7番の新解釈
金の野の草を刈って屋根にふいて宿っていた、あの 宇治の宮室 (福岡県田川郡香春町宮原附近)の質素な造りが
なつかしく思い出される。
山上憶良大夫の類聚歌林を調べると書いてあることには、一書に戊申の年(宇治天皇三年=四〇八か)に(宇治
天皇が)比良の宮(菟道河沿いの地か)に行幸されるときの大御歌といっている。(後略)
■ 新考
宇治天皇三年「冬十月に、甫めて課役を科せて、宮室を構造る。是に、百姓、領うながされずして、老を扶け幼を
携へて、材を運び簣こを負ふ。日夜と問はずして、力を竭して競ひ作る。是を以て、未だ幾時を經ずして、宮室悉に
成りぬ。」の条の結果、天皇は新宮殿と思われる「比良の宮」に遷宮された。
『万葉集50番歌』「藤原京の役民の作りし歌」
下記の『万葉集 50番』にある「淡海乃國」、「田上山」、「八十氏河」は、
『日本書紀 神功紀』の歌「淡海の海 齋多 の濟わたりに 潜く鳥 田上過ぎて 菟道に捕へつ」と比較すれば、
古遠賀湾の「淡海」から 「田上」を過ぎて「菟道河(この場合は彦山川か)」に溯った辺りでもある。
同時に、『古事記 應神記』において、應神天皇が宇遅能和紀郎子の母となる、矢河枝比売に 木幡村 で出遭う
直前に、「一時に、天皇、近つ淡海国に越え幸でましし時に、宇遅野の上に御立ちし、葛野を望け、歌ひ曰りたまはく、
千葉の葛野を見れば 百千足る 家庭も見ゆ 国の秀も見ゆ」の章段があり、「近つ淡海国」と「宇遅野」とが近い
ことが知られる。
つまり、「比良の宮」は「近つ淡海」にごく近く、すなわち、『 万葉集
31番 』「ささなみの 比良の大わだ
よどむとも 昔の人に 会はむと思へや」の歌に詠まれた「比良の大わだ」にごく近いことになる。
『万葉集 1715番』にも「楽浪之 平山風之 海吹者 釣為海人之 袂変所見(ささなみの 比良山風の 海吹けば
釣する海人の 袖かへる見ゆ)」という歌があり、平山と海がごく近い。
『 万葉集 29番 』の「青丹よし平山」の平山も通説ではナラヤマと訓まれるが、あるいはヒラヤマかも知れない。
<所在地マップ>