「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 邪馬臺(やまと)國 = ( やまと)国 年表(豊国史)

[114年~115年 神武東征(第一次東征は、古遠賀湾から倭奴国を攻めるが、敗れる)]

<114年~115年>

神武東征と魏志倭人伝
一一四
  冬十月、磐余彦、諸兄・諸皇子ら
   と第一次東征を開始。
  「太歳甲寅
  十一月、岡水門に至り、軍備を整
   える。
一一五
  春三月、遠賀湾を遡り、     
  夏四月、長髄彦軍と交戦、五瀬命
   負傷し、敗戦。博多湾住吉神社
   近くの草香津に帰還。     
  五月、五瀬命死去、竈山宝満山
   に葬る。

 竈山の高千穂の宮において、三年間
再軍備。

神武東征(第一次東征)は、甲寅(114年)~乙卯(115年)

 

■ 『日本書紀』に甲寅の「十有一月の丙戌の朔甲午に筑紫国の 岡水門 に至りたまふ。」とある。

■ 「乙卯年の春三月の甲寅の朔己未に、吉備国に徙りて入りましき。行館を起りて居す。三年積る間
 舟檝を脩へ、兵食を蓄へて、将に一たび挙げて天下を平けむと欲す。
」とある。

  ⇒ 第一次東征で破れたので三年間(乙卯:115年~丁巳:117年)再軍備する。
  第一次東征に敗れて、五瀬命の死去は、戊午(118年)ではなく、乙卯(115年)である。
   また、「吉備国に徙りて・・・」の記述は、神武東征で、神武は 瀬戸内海を渡っていない。
  再軍備の場所は 竈山 の高千穂の宮」である。

以下、『越境としての古代[6]』の「神武は、筑豊に東征した」より

 「太歳甲寅」は中国で始まった干支である。日本書紀では、ここが最初の出現であることが重要だ。神武
からが「人皇」と称される所以でもある。
  すでに、「漢委奴国王」印や飯塚市の立岩遺跡の前漢式鏡の銘文が示すとおり、紀元前後の福岡県下には
漢字の輸入の跡が残されていて、当時の倭人が中国文明の暦である干支を理解し、使用していたことが推測
される。
 「人皇」初代の事跡に干支が用いられる意義は極めて重要である。これこそ、必要以上に長くした皇紀の
実年代を後世に伝えようとした工夫ではなかったのか。

 神代の巻に投影された歴史事実の年代は推測の域を出られないが、神武東征の最初は、金文の「漢委奴国王」印
(西暦五七年)以後は確実であり、永初年間(一〇七~一一三)の倭奴国の乱直後と仮定すると、そこに最も
近い「甲寅」は、西暦一一四年(後漢の安帝の元初元年)ということになり、その絶対年が出現するのである。

 通説の中では、那珂通世の学説が最も優れていて、津田左右吉以下の戦後史学の学説には見るべきものが無い。
次は、岩波日本古典文学体系の神武紀補注からの抄録である。

<試みに神功・応神二代の紀年を朝鮮の歴史と比較するに、両者の干支符合して、しかも書紀は彼よりも干支
二巡百二十年古いこととなっている事例が多多見出される。
 百済の近肖王以下の時代においては、彼の年紀に疑うべきところもなく、これを古事記に記入された崇神以下
各天皇の崩年干支との関係と併せ考え、この二代の書紀紀年は百二十年の延長あるものと考えざるを得ない。
 雄略紀以後は大体朝鮮の歴史と符合するので、紀年の延長は允恭紀以前にとどまるととみてよかろう。
 干支紀年法は百済の内附後に学んだものと考えられ、朝鮮との関係のない崇神以前の年代は推算の限りでは
ないけれど、試みに一世三十年の率を以て推すに、神武は崇神九世の祖に当るから、崇神までの十世の年数は
三百年ばかりとなり、神武の創業は漢の元帝の頃(西暦一世紀前半頃)に当るであろう。>

 中国史書に云う倭人の歴史が史実であるなら、日本書紀に書かれた同時代の出来事と推測可能の神武東征も、
そのまま史実と認められてよいだろう。
 私はここに、神武天皇の東征は西暦一一四年、博多湾岸(西の偏)から東の方「天神王朝(古遠賀湾沿岸)=
倭奴国の中洲の皇都」を目指して
開始された侵略と比定する。