「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
[帯方郡はどこか(4つの説がある)⇒(c)京畿道ソウル説]
(a)黄海北道鳳山郡説、(b)黄海南道安岳郡説、(c)京畿道ソウル説、(d)京畿道広州説
(a)黄海北道鳳山郡説
平壌から南へ50km、黄海北道鳳山郡沙里院にある唐土城を帯方郡治に比定
する説。楽浪郡址と同時代の瓦・塼(煉瓦)・銭などが出土しているほか、
1912年に付近の古墳群からは「帯方太守 張撫夷塼」と刻まれた塼槨墓が見つ
かるなど考古学的な発見は多い。
(b)黄海南道安岳郡説
平壌の南西60km、安岳郡に比定する説。付近には「元康5年(295)」銘塼
のある下雲洞古墳、「太康9年(288年)」銘塼出土の柳雲里北洞があり、楽浪
墓制と同じく、漢人の塼槨墓がこの地にも数多く営まれたことを窺わせる。
(c)京畿道ソウル説
現在のソウルに帯方郡治があったとする説。『漢書地理志』には、前漢時代
の楽浪郡25県の1つとして帯方県が記され、「帯水、西して帯方に至り海に入る」
とある。この「帯水」とはどの川かとなるが、同書には明らかに大同江を指し
示す「列水」がある以上、「帯水」を大同江のことと解する余地はない。最有
力なのは中部を西流する大河の漢江であり、その河口部のソウルこそが帯方郡
治であったという論法になる。
(d)京畿道広州説
ソウルの東南40kmの広州を帯方郡治に比定する説。漢江を河口から遡ると、
ソウルを過ぎて北上する北漢江と南東に向かう南漢江に分かれる。「帯水、西
して帯方に至り海に入る」の「帯水」を(c)説よりも長く捉えて南漢江と解す
れば、帯方郡治を広州と考えることも可能である。百済の最初の王都・尉礼城
とはここであった。
以下、『邪馬臺国の位置と年表』より
韓半島半周水行
郡より倭に至るには、海岸に循したがひて水行し、韓国を歴へて、乍たちまち南し乍ち東す。其の北岸狗邪韓国に
至るには七千余里なり。
帯方郡から倭国に至るには、海岸に沿ってだんだんと水行し、韓国を経由して、南に行ったと思うと東に行く。
倭の北岸狗邪韓国に至るには七千余里である。
ここには明らかに「水行」とあり、後の「水行十日陸行一月」の総日程と呼応する。「循」字は解釈のとおり。
「歴」字は、後の「相攻伐すること歴年」に見られるように、すでに抽象的な意義になっており、「経る」と同様の
意であり、必ずしも「陸行」を意味しない。
後述するが、山有り谷あり虎ありの実際の韓国内を階段式に、道無き道を魏使が自ら歩くのは困難を極める。
「乍」字も解釈のとおり、辞書の助辞解説にあり、南に水行し東に水行したと読み取れる。
また、「韓伝」に「方四千里」とあるから、韓半島を半周水行すると八千里となるが、東端まで行かず、ほぼ半周の
辺りの海岸に停泊したとすると、「七千余里」は「東夷伝」を一貫しての的確な距離となる。
※ 周里 :1里(67.5m)→ 1,000里(67.5km)を用いた距離で、逆に狗邪韓国から七千里戻った所が、
現在のソウル付近になる。
⇒ 帯方郡は、川の名前から(c)京畿道ソウル説と判明した。