「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 豊前国分寺跡 = 蘇我馬子が建てた法興寺(大和王朝の東遷)

大和王朝の東遷に関係する廃寺。住所は、豊前国分寺跡 で検索して表示しています。

 このページの住所は、みやこ町 デジタルミュージアムの  こちら  国府・国分寺たんけんを参考にしました。

 日本王朝の東遷 」によると思われる廃寺の情報です。

※ 聖徳太子の正体 蘇我氏は「みやこ」にいた
  (平成29年6月3日 みやこ町歴史民俗博物館。4 日 嘉麻市NICO)の講演より

 平亂之後、於攝津國造四天王寺。分大連奴半與宅、爲大寺奴田庄。以田
一萬頃、賜迹見首赤檮。蘇我大臣、亦依本願、於飛鳥地起法興寺

 乱後、四天王寺法興寺が建立された。廐戸皇子の故事は偽作の可能性が強く、両寺は馬子が建てたらしい。
四天王寺は 椿市廃寺 に建てられたようだ。礎石跡から四天王寺式伽藍であることが確認されている。
 先の用明紀に示したとおり、炊屋姬皇后の別荘(海石榴市宮)跡に建てられたようだ。後に、大和王朝が
現在の近畿に遷都した際に、大阪(難波)に移築されたらしい。

 法興寺は豊前国分寺跡に建っていたようだ。みやこ町の解説書に、
「当時豊前国分寺は東西約一六〇m、南北一六〇~二二〇mほどの広大な範囲を寺域とし、その内側に南から北へ
 一直線に南門・中門・金堂・講堂が建ち並び、金堂の南東側に七重塔がそびえ立っていたものと見られています。」

とある。
 出土物に鬼瓦片(大宰府系)がある。椿市廃寺からは鴟尾片と百済系単弁八葉蓮華文軒丸瓦が出土している。
また、豊前国分寺跡の南にある 上坂廃寺 からも椿市廃寺と同様の出土物が見られる。
 これらの鴟尾や瓦がどこで作られたかが最近判明した。築上町の船迫窯跡である。
 奈良文化研究所の大脇潔先生が船迫窯跡の鴟尾を復元された。百済様式である。この完成品が上坂廃寺椿市廃寺
金堂の切妻屋根に載っていたそうだ。
 鬼瓦片(大宰府系)百済系単弁八葉蓮華文軒丸瓦も豊前の廃寺から出るすべての瓦が船迫窯跡で作られている。
 したがって、日本書紀に記された「蘇我氏の寺院」は全てここ旧京都郡にあったと言わざるを得ない。「論より
証拠」とはこのことである。

 是歲、百濟國遣使幷僧惠總・令斤・惠寔等、獻佛舍利。百濟國遣恩率首
信・德率蓋文・那率福富味身等、進調、幷獻佛舍利・僧聆照律師・令威・
惠衆・惠宿・道嚴・令開等・寺工太良未太・文賈古子・鑪盤博士將德白昧
淳・瓦博士麻奈文奴・陽貴文・㥄貴文・昔麻帝彌・畫工白加。蘇我馬子宿
禰、請百濟僧等、問受戒之法、以善信尼等付百濟國使恩率首信等、發遣學
問。壞飛鳥衣縫造祖樹葉之家、始作法興寺

 是歲記事に拠れば、船迫窯や法興寺等の豊前の各廃寺の建築に、百済国から派遣された技術者の直接の影響の
あることが確かに読み取られる。蘇我氏は明らかに豊前にいた。

百済様式(船迫窯跡 鴟尾の復元)

初唐様式(みやこ町歴史民俗博物館)

鬼瓦・文軒丸瓦および発掘当時

「写真」
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