「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 聖徳太子の正体 蘇我氏は「みやこ」にいた

※ 聖徳太子の正体 蘇我氏は「みやこ」にいた(平成29年6月3日 みやこ町歴史民俗博物館。4 日 嘉麻市NICO)の講演より

 ■ 天皇家と蘇我氏の歴史⑤ 崇峻天皇

 崇峻紀は即位前紀から始まる。書紀の通例として、即位前紀には必ず皇位継承の争いが記されている。
 泊瀬部天皇(崇峻天皇 在位五八七 ~ 五九二)紀は用明二年夏四月の橘豐日天皇崩御から書き起こされる。

泊瀬部天皇、天國排開廣庭天皇第十二子也、母曰小姉君。稻目宿禰女也。已見上文也。二年夏四月、
橘豐日天皇崩。五月、物部大連軍衆、三度驚駭。大連、元欲去餘皇子等而立穴穗部皇子爲天皇。
及至於今、望因遊獵而謀替立、密使人於穴穗部皇子曰「願與皇子將馳獵於淡路。」謀泄。

 五月に物部守屋は軍を発動し、穴穗部皇子を天皇に立てようと謀る。

六月甲辰朔庚戌、蘇我馬子宿禰等、奉炊屋姬尊、詔佐伯連丹經手・土師連磐村・的臣眞嚙曰
「汝等、嚴兵速往、誅殺穴穗部皇子與宅部皇子。」是日夜半、佐伯連丹經手等、圍穴穗部皇子宮。
於是、衞士先登樓上、擊穴穗部皇子肩。皇子落於樓下走入偏室、衞士等舉燭而誅。辛亥、誅宅部
皇子宅部皇子、檜隈天皇之子、上女王之父也、未詳。善穴穗部皇子、故誅。

 六月に、馬子は炊屋姬尊を奉じて、「穴穗部皇子と宅部皇子を誅殺せよ」との詔を発し、二人の皇子を誅殺した。

秋七月、蘇我馬子宿禰大臣、勸諸皇子與群臣、謀滅物部守屋大連。泊瀬部皇子・竹田皇子・
廐戸皇子・難波皇子・春日皇子・蘇我馬子宿禰大臣・紀男麻呂宿禰・巨勢臣比良夫・膳臣賀拕夫・
葛城臣烏那羅、倶率軍旅、進討大連。大伴連嚙・阿倍臣人・平群臣神手・坂本臣糠手・春日臣闕名
字倶率軍兵、從志紀郡到澁河家。大連、親率子弟與奴軍、築稻城而戰。於是、大連昇衣揩朴枝間、
臨射如雨、其軍强盛、塡家溢野。皇子等軍與群臣衆、怯弱恐怖、三 却還。

「絵+写真」

 秋七月に、蘇我馬子は諸皇子と群臣に勧めて物部守屋を滅ぼそうと謀り、実行に
移した。が、守屋の軍は強く、蘇我勢は劣勢に立たされた。

 守屋の邸宅「渋川の家」も探索中である。
ただ、行橋市内に物部守屋までの一族の墓が遺されているようだ。 稲童古墳群 
ある。解説書に
「瀬戸内海西端の周防灘に面した、標高五~一〇m程の海岸段丘上につくられて
います。段丘上には、古墳時代前期から後期にかけて築かれた約三〇基の古墳が
南北約一kmにわたって築かれています。」
とある。
 稲童二一号墳出土の金銅立飾付眉庇付冑「国内外でも例がなく、優美な姿の
金銅立飾はそのルーツを朝鮮半島に求めることができます。」
と、してある。
 京築の地に、朝鮮半島から渡来した物部氏が居住していてもちっともおかしくない。

 蘇我勢が劣勢の最中、廐戸皇子は四天王像を作って誓う、
今若し我をして敵に勝たしめたまはば、必ず護世四王の奉爲に寺塔を起立てむ。
と。蘇我馬子大臣も、又誓う、
凡そ諸天王・大神王等、我を助け衞りて利益つこと獲しめたまはば、願はくは諸天と大神王との奉爲に、寺塔を起立てて三寶を
流通へむ。
」と。
 その直後に、木の上の守屋が射落とされ、守屋と子等が誅殺された。守屋の軍は敗れ、守屋の一族は或いは葦原に逃げ隠れ、或いは
逃亡して所在知れずになったと書紀は記す。

 稲童二一号墳出土の金銅立飾付眉庇付冑

平亂之後、於攝津國造四天王寺。分大連奴半與宅、爲大寺奴田庄。以田一萬頃、賜迹見首赤檮。
蘇我大臣、亦依本願、於飛鳥地起法興寺

 乱後、四天王寺法興寺が建立された。廐戸皇子の故事は偽作の可能性が強く、
両寺は馬子が建てたらしい
 四天王寺は 椿市廃寺 に建てられたようだ。礎石跡から四天王寺式伽藍である
ことが確認されている。
 先の用明紀に示したとおり、炊屋姬皇后の別荘(海石榴市宮)跡に建てられた
ようだ。後に、大和王朝が現在の近畿に遷都した際に、大阪(難波)に移築され
たらしい。
 法興寺は 豊前国分寺跡 に建っていたようだ。みやこ町の解説書に、
「当時豊前国分寺は東西約一六〇m、南北一六〇~二二〇mほどの広大な範囲を
寺域とし、その内側に南から北へ一直線に南門・中門・金堂・講堂が建ち並び、
金堂の南東側に七重塔がそびえ立っていたものと見られています。」
とある。出土物に鬼瓦片(大宰府系)がある。椿市廃寺からは鴟尾
片と百済系単弁八葉蓮華文軒丸瓦が出土している。
 また、豊前国分寺跡の南にある 上坂廃寺 からも椿市廃寺と同様の出土物が見られる。これらの鴟尾や瓦がどこで作られたかが最近判明
した。築上町の船迫窯跡である。奈良文化研究所の大脇潔先生が船迫窯跡の鴟尾を復元された。百済様式である。この完成品が上坂廃寺
椿市廃寺の金堂の切妻屋根に載っていたそうだ。鬼瓦片(大宰府系)も百済系単弁八葉蓮華文軒丸瓦も豊前の廃寺から出るすべての瓦が
船迫窯跡で作られている。したがって、日本書紀に記された「蘇我氏の寺院」は全てここ旧京都郡にあったと言わざるを得ない。
 「論より証拠」とはこのことである。
 守屋が滅んだ後に、一人の家来の逸話が続く。抄録する。

 鬼瓦片・復元された鴟尾

「写真」

物部守屋大連資人、捕鳥部萬萬、名也將一百人守難波宅、而聞大連滅、騎馬夜逃、向茅渟縣有眞香邑、
仍過婦宅而遂匿山。朝庭議曰「萬、 懷逆心、故隱此山中。早須滅族、可不怠歟。」

 守屋の資人捕鳥部(よろづ)が逃亡して山に隠れるが、朝廷が萬の一族を滅ぼせと
命じる。萬は自ら出てきて、朝廷の兵三十余人を殺して自害する。
 朝廷は萬の死骸を「斬、散梟。」と命じる。河內の國司が、
「卽依苻旨、臨斬梟時」に、鳴大雨。」とある。
 すると、「爰有萬養白犬、俯仰𢌞吠於其屍側、遂嚙舉頭
置古冢、横臥枕側、飢死於前。」

 朝廷はこの犬を愛でて、萬の一族に墓を造らせ、萬と犬とを葬らせた。実に奇妙な
逸話である。 ところが、萬と犬との墓らしきものが実在する。
 行橋市の「 八雷古墳 」である。ここから出た埴輪が白犬の噛み挙げた萬の頭を
連想させるのである。
 二代綏靖天皇以来、外戚であり続け、国つ神を崇拝した古代氏族である物部氏の
宗本家が滅亡した。

 八雷古墳

測量図+埴輪

四年夏四月壬子朔甲子、葬譯語田天皇磯長陵、是其妣皇后
所葬之陵也。

 敏達天皇がやっと葬られている。みやこ町勝山黒田にある 庄屋塚古墳 (地図3)の
ようである。六世紀中頃に築かれた前方後円墳である。
 磯長陵とあるので、 橘塚古墳 (地図1)の近くであること、橘塚古墳よりも少し
古いことから、推測できた。
 ヲサタ天皇の呼称と関連して、すぐ近くに「小長田」の地名も遺されている。
庄屋塚古墳には母の石姫と子の敏達天皇が眠られているらしい。

 庄屋塚古墳

地図(みやこ町勝山黒田)

冬十一月己卯朔壬午、差紀男麻呂宿禰・巨勢猿臣・大伴囓連・
葛城烏奈良臣、爲大將軍。率氏々臣連、爲裨將部隊、領二萬
餘軍、出居筑紫

 崇峻四年(五九一)冬十一月、二萬餘の軍筑紫に派遣された。この軍は推古三年(五九六)七月に豊国に帰ってくる。紀男麻呂宿禰は
欽明二三年七月に大将軍として新羅を討ち、用明二年七月物部守屋討伐にも従軍している。
 西暦五九一年、この時、筑紫側に一体何者がいたのであろうか。
 法隆寺金堂に安置されている釈迦三尊像の光背銘に法興元三十一年歳次辛巳」という年号が刻まれている。この法興
『二中歴』に記された古代逸年号群の中にない。継体以降の豊国年号と違う系列の古代逸年号である。

 『襲國偽僭考』の逸年号と豊国年号(佃収説を編集)

    筑紫年号 

   五九一

   法興

   六二一

   法興元三十一(辛巳)

   六二二

   六二三

   仁王

   六二八

   六二九

   聖聴

   六四一

    豊国年号 

   五八九

   端政

   五九二

 崇峻天皇が、蘇我馬子に暗殺される

   五九三

   五九四

   告貴

   六〇〇

   六〇一

   願転

   六〇四

   六〇五

   光元

   六一〇

「絵図」
「画像」

 倭国地図(天物部氏が、筑紫に就く)                

「地図」

 倭国地図(法興以後)

「地図」

 その法興元年が西暦五九一年である時、二萬餘の豊国軍が筑紫に派遣された年に筑紫国に年号が発布されたことになる。発布の
主は誰か。
  『隋書』俀國傳 に云う「開皇二十年(六〇〇年)、俀王、姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌すなわち
阿毎多利思比孤(天足彦)その人であろう。阿輩雞彌は天皇(あめきみ)の中国音(唐宋音読み)か(毎は米と同じでマイがベイに変化した)。
後に自ら日出處天子と称した。
 中国の後代の史書 『宋史』日本國 には、
「次用明天皇、有子曰聖德太子、年三歳、聞十人語、同時解之、七歳悟佛法于菩提寺、講聖鬘經
天雨曼陀羅華此土隋開皇中、遣使泛海至中國、求法華經。次崇峻天皇。次推古天皇、欽明天皇
之女也。」

とあるから、「筑紫の日出處天子」が記紀や記紀以外の文献において、「豊国の聖徳太子」に貶められたらしい。結局、倭国の歴史に
聖徳太子はいなかったのである。
 それでは、豊国の蘇我馬子と筑紫国の阿毎多利思比孤とはどういう関係なのであろうか。どうやら、蘇我馬子は阿毎多利思比孤に臣従を
誓ったらしい。
 継体以来の豊国が兄国、筑紫国が弟国の関係が逆転し、筑紫国が倭国本朝、豊国が倭国東朝となったらしい。ここに、遂に、崇峻暗殺が
起こる。

五年冬十月癸酉朔丙子、有獻山猪、天皇指猪詔曰「何時、如斷此猪之頸斷朕所嫌之人。」多設兵仗、
有異於常。壬午、蘇我馬子宿禰、聞天皇所詔、恐嫌於己。招聚儻者、謀弑天皇。是月、起大法興寺
佛堂與步廊。
十一月癸卯朔乙巳、馬子宿禰、詐於群臣曰「今日、進東國之調。」乃使東漢直駒弑于天皇。

 西暦五九二年、筑紫国の阿毎多利思比孤が法興年号を発布した翌年、豊国の崇峻天皇が 逆臣蘇我馬子に暗殺されたのである。