「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 日本(やまと)王朝の東遷(8世紀に豊国から大和へ)

※ 鷹羽の神々の盛衰に見る「王朝交替」   
  第15回古代史講座 古代田川を解き明かす  
  (令和2年2月23日(日)、主催:田川広域観光協会古代史研究会、於:OTOレインボ―ホ―ル)より

大和王朝の東遷」 ⇒ 「日本王朝の東遷」 に表記を訂正しています。講演時の資料と説明コメントは、
 こちら に掲載しています。

 

 大和王朝の東遷時期 ・・・ 北部九州の廃寺時期と重なる 

 廃寺の時期は、天武天皇7年(679年)に発生した  筑紫大地震 の後の7世紀末から始まっている。
  この廃寺跡からは、木材の一片も出土されない出土されているのは、礎石である。木造建築は移築出来るので、
 木材のみ大和の地へ運んで寺院を再建した。

    遺跡名(移築前のお寺)

 旧郡

  所在地

  調 査

  時期

    天台寺跡 

 田河

 田川市大字伊田675

 1985~88

 7末~9後

    椿市寺跡 四天王寺

 京都

 行橋市大字福丸

 1977~79、1990

 7末~9前

    菩提寺跡 

 京都

 勝山町大字松田2143

 1987

 8後~

    上坂寺跡 法起寺

 仲津

 豊津町大字上坂

 1983

 7末~9前

    木山寺跡 

 仲津

 犀川町大字木山591

 1974

 8初

    国分僧寺跡 法興寺

 仲津

 豊津町大字国分

 1974、1985~87

 756年頃~

 仲津

 豊津町大字徳政

 1992

 8後~

    垂水寺跡 

 上毛

 新吉富村大字垂水

 1973~75、1993

 7末~8後

    相原寺跡 

 下毛

 中津市大字相原

 1988

 7末~

 下毛

 三光村大字西秣

 1988、1990、91

 8中~8末

    法鏡寺跡 

 宇佐

 宇佐市大字法鏡寺

 1971、75、76

 7末~9前

 宇佐

 宇佐市大字山本

 1954、1971

 7末~

 宇佐

 宇佐市四日市上元重

  

 8初

    弥勒寺跡 

 宇佐

 宇佐市大字南宇佐

 1954~60、81~88

 725年頃~

 

 大和王朝の東遷=北部九州(筑前・豊前)の古代寺院跡の詳細地図です。

地図「北部九州の古代寺院跡」

※ 聖徳太子の正体 蘇我氏は「みやこ」にいた(平成29年6月3日 みやこ町歴史民俗博物館。4 日 嘉麻市NICO)の講演より

 五五二年( 欽明天皇 一三年)に百済の聖明王が仏像と経文を献上した。これによって、崇仏派の蘇我稲目と廃仏派の物部
尾輿との間で対立
がおこる。(物部氏と蘇我氏の間の確執が始まり)

(*)この年が、日本に初めて仏教公伝したといわれるが、これは間違いです。古い仏教はもっと以前に入ってきている。ただ、
  百済の時代の新しい仏教が欽明天皇の時代に入ってきただけの事である。
   福岡県の古墳の中からは、手に持って拝んでいたという持仏が出土されるが、これは後の時代の人が入れた物として捨て
  られてしまうという情けない事実がある。福岡県の古墳というのは、これだけ蔑ろにされている。
   これより以前の古墳から持仏が出てくると時代に合わない(仏教伝来より早すぎる。後から誰かが入れた)として捨てる。
  これが、考古学の実態である。

 崇峻天皇 紀、用明天皇二年の記事より

 乱後、四天王寺法興寺が建立された。廐戸皇子の故事は偽作の可能性が強く、両寺は馬子が建てたらしい
 

是歲、百濟國遣使幷僧惠總・令斤・惠寔等、獻佛舍利。百濟國遣恩率首信・德率蓋文・
那率福富味身等、進調、幷獻佛舍利・僧聆照律師・令威・惠衆・惠宿・道嚴・令開等・
寺工太良未太・文賈古子・鑪盤博士將德白昧淳・瓦博士麻奈文奴・陽貴文・㥄貴文・
昔麻帝彌・畫工白加。蘇我馬子宿禰、請百濟僧等、問受戒之法、以善信尼等付百濟國
使恩率首信等、發遣學問。壞飛鳥衣縫造祖樹葉之家、始作法興寺

 是歲(元年)記事に拠れば、船迫窯や法興寺等の豊前の各廃寺の建築に、百済国から派遣された技術者の直接の影響の
あることが確かに
読み取られる。蘇我氏は明らかに豊前にいた。

 崇峻四年(五九一)冬十一月、二萬餘の軍が筑紫に派遣された。これは、戦に行ったのでは無いという事は、阿毎多利思
比孤の即位式を祝いに行った。蘇我馬子は、豊国の裏切り者である。筑紫国の天皇に忠誠を誓った。
 百済から豊国に伝わったお寺を建てる技術を全部、筑紫国の天皇に渡した。多利思比孤は、中国側の史書に仏教を重ん
じたと書かれているように筑紫にどんどん建った。したがって、太宰府の周辺に観世音寺をはじめ古代の寺院が多数存在する。  

 しかし、上記の地図の丸のエリア、遠賀川の流域には、廃寺跡が無い。この廃寺の空白地域は、神道を大事にした筑紫
物部氏の故地
である。だから、遠賀川沿いに廃寺が無い謎がやっと解けた。
 奈良時代(律令時代)は、仏教を国の教えとしたにも関わらず豊国・筑紫の土地には廃寺が多すぎる。それは奈良・京都・
大阪にお寺が無かったので、こちらのお寺を解体して木材のみ運んで組み立て直してお寺を造り即興で都を建設したからである。
 瓦と礎石は重たいので残していったから、廃寺が終わった時期が判るように8世紀から約100年位にかけて、大移動があった。

<廃寺跡からの出土物>

 鬼瓦片・軒丸瓦

「写真」

 復元された百済様式の鴟尾

「写真」

 豊前国分寺跡の軒丸瓦

「写真」

 出土物に鬼瓦片(大宰府系)がある。椿市廃寺からは鴟尾片百済系単弁八葉蓮華文軒丸瓦が出土している。また、豊前国分寺
跡の南に
ある上坂廃寺からも椿市廃寺と同様の出土物が見られる。
 これらの鴟尾や瓦がどこで作られたかが最近判明した。築上町の船迫窯跡である。奈良文化研究所の大脇潔先生が船迫窯跡の
鴟尾
を復元された。百済様式である。

 この完成品が上坂廃寺椿市廃寺金堂の切妻屋根に載っていたそうだ。鬼瓦片(大宰府系)百済系単弁八葉蓮華文軒丸瓦
豊前の廃寺から出るすべての瓦が船迫窯跡で作られている。