「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 阿曽隈社(地元では上権様)= 菟道稚郎子(宇治天皇)⇒ 「宇治京」跡/天智天皇の菟道宮

[  王仁(わに)」について、『古事記』では、和邇吉師(わにきし)  ]

■ 『日本書紀 応神紀』の菟道稚郎子が、王仁(わに)を師とした記事と
 『日本書紀 仁徳紀』の新しい宮の造営の記事

日本書紀 応神紀
 十五年の秋八月の壬戌の朔丁卯に、百済の王、阿直
伎を遣して、良馬二匹を貢る。即ち軽の坂上の厩に養
はしむ。因りて阿直岐を以て掌り飼はしむ。故、其の
馬養ひし処を号けて、厩坂と曰ふ。阿直岐、亦能く経
典を読めり。則ち太子菟道稚郎子、師としたまふ。是
に、天皇、阿直岐に問ひて曰はく、「如し汝に勝れる
博士、亦有りや」とのたまふ。対へて曰さく、「王仁
といふ者有り。是秀れたり。」とまうす。時に上毛野
君の祖、荒田別・巫別を百済に遣して、仍りて王仁
徴さしむ。其れ阿直岐は、阿直岐史の始祖なり。
 十六年の春二月に、王仁来り、則ち太子菟道稚郎子
、師としたまふ。諸の典籍を王仁に習ひたまふ。
通り達らずといふこと莫し。所謂王仁は、是書首等の
始祖なり。
日本書紀 仁徳紀
 十年の冬十月に甫めて課役を科せて、宮室を構造る。
是に、百姓、領されずして、老を扶け幼を携へて、材
を運び簣を負ふ。昼夜と問はずして、力を竭して競ひ
作る。是を以て、未だ幾時を経ずして、宮室悉に成り
ぬ。故、今までに聖帝と称めまうす。

  倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった「宇治の宮」から新しい宮を造る事になり、新しく
完成した「比良宮」の造営を祝った歌が、『百人一首』の序歌 王仁(わに)の歌である。
 百人一首の競技の初めに序歌として朗詠される歌。

 

■ 『百人一首』の序歌、『古今和歌集仮音名序』に大鷦鷯尊の そえ歌 とある

百人一首 序歌
難波津に 咲くやこの花 冬ごもり
今を春べと 咲くやこの花
王仁(わに)
古今和歌集 仮名序より
そもそも、うたのさま、むつなり。
からのうたにも、かくぞあるべき。
そのむくさのひとつには、そへうた。
おほささきのみかどを、そへたて
まつれるうた、
 なにはづに さくやこの花 
 ふゆごもり いまははるべと 
 さくやこのはな
といへるなるべし。

【新解釈一 : 朝廷の御初めを祝った歌

 宇治天皇の新宮殿である岡(遠賀)の海の難波津にある比良の宮に咲き誇っているよ、梅の花が。ちょうど、
冬、木の芽が盛り上がるように、宇治帝が三年間、人民の課役を科せられずに、雨漏りのする粗末な宇治の京の
仮廬のような宮殿で過ごされ、その間に人民は富み、やがて炊煙が盛んに立つようになった。
 天皇は人民と共に富み栄え、新宮殿の成った今を聖帝の御世の春(勢いの盛んな時期)と讃えるかのように、
咲き誇っているよ、梅の花が。

【新解釈二 : 大鷦鷯天皇の政治を風刺し申し上げた歌

 大鷦鷯天皇の遠つ淡海にある 難波高津の宮 には咲き誇っていますか、梅の花が。いや、決して咲きますまい。
冬、木の芽が盛り上がるように、かの宇治帝が三年間、人民の課役を科せられずに、雨漏りのする粗末な宇治の
京の仮廬のような宮殿で過ごされ、その間に人民は富み、やがて炊煙が盛んに立つようになった、あの聖帝の
御世を継承できますか。
 大鷦鷯天皇の御世となった今を春と讃えて咲き誇っていますか、梅の花は。人民と共に富み栄えることが
なければ、梅の花は決して咲きますまい。

 「難波津の歌」が、真に「王仁」の作であるなら、宇治天皇(=真実の仁徳天皇)の御世を祝ったのが本来の真意
であり、宇治天皇の非業の死後に「難波津の什物」を大鷦鷯天皇に献上せざるを得なくなった時に、難波津の歌は
一転して「添へ歌」となり、「政治を風刺し申し上げた歌」と化した。
 紀貫之はその真意を知っていたようだが、日本書紀成立後の平安朝においては「大鷦鷯天皇=仁徳天皇」とされた
から、早くに「そへ歌」の真意が忘れ去られたようだ。
 その結果、なにはづのうたは、みかどのおほむはじめなり。」の方だけが伝えられ今日に至ったようである。
 しかし、人々は宇治天皇の御世こそ忘れ去ったが、聖帝記事を歴史事実として敬慕し続け、王仁の「難波津の歌」
自身も後世に多大の影響を及ぼしたのである。  <『宇治の京』より>

 

■ 『万葉集7番歌』は、宇治天皇が、新しい宮の完成後に「宇治の宮」を懐かしく思って詠われた歌である

万葉集 七
明日香川原宮御宇天皇代
      天豊財重日足姫天皇
額田王歌  未詳
金野乃 美草苅葺
屋杼礼里之 兎道乃宮子能
借五百礒所念
右檢山上憶良大夫類聚歌林曰
一書戊申年幸比良宮大御歌
但紀曰 五年春正月己卯朔辛巳
天皇至自紀温湯 三月戊寅朔天皇
幸吉野宮而肆宴焉 庚辰日天皇
近江之平浦
秋の野の み草刈り葺き
宿れりし 宇治のみやこの
仮廬し思ほゆ

*.左注の「戊申年」は、四〇八年(宇治天皇三年)また、比良宮(ひらのみや)が、記紀に近江(あふみ)
 平浦(ひらのうら)と記述がある。
  宇治天皇の新しい宮(比良宮)も 難波津(なにわづ)にあった。大鷦鷯天皇の難波高津宮も難波津(なにわづ)
 でどちらの宮も難波津と言える。

 

■ 『百人一首 一番』

百人一首 一番
秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ
わが衣手は 露にぬれつつ
天智天皇
【新解釈】
 秋の田の稲穂を刈り、その藁を苫に編み、
 仮廬のようなわが宮殿の屋根を葺くが、
 苫の目が粗いので時々、わが袖は漏れ来
 る雨露に濡れる
ことだ。
 それでも朕は民の暮らしが豊かならんこ
 とを願う。
王道の御述懐の歌
     (百人一首応永妙)
 農民の辛苦を思いやられた
 聖帝の歌
あるいは、宇治天皇の御製歌